第45話 こんな日にまさか

 準備を始めたのは、午後四時のことだった。待ち合わせは七時だったから、早すぎるのはわかってる。でもいてもたってもいられなかったし、万が一、髪やメイクが決まらずに思いの外時間がかかってしまうかもしれない。そういうのを見越してである。


 ある程度髪を整えてから、昨日とは違うワンピースに袖を通す。昨日のはベージュのレースワンピースだったが、今日のは、ダークグリーンだ。図らずもクリスマスカラーである。一見、ツーピースにも見えるタイプで、デコルテから袖がレースになっている他は、つるんとしたサテン地である。


 着替えを済ませてから、服が汚れないようにとケープを巻き、化粧をする。


『俺と会うんだって、それだけ考えながら準備して。他のことなんて考えないで』


 白南風さんの言葉を思い出す。

 そんなの無理だって思ってた。


 化粧自体はもう何年もしていることではあるけど、まずは下地――の前に化粧水やら乳液やらで肌を整える必要があるけど――それからコンシーラーであれこれ隠して、それからファンデ。次は眉毛を書いて、アイシャドウにアイライン。これだって服に合わせる必要があるし、チークだってそう。それで、口紅をはみ出さないようにブラシを使って塗る。忘れちゃいけないのはビューラーとマスカラだ。こんなの絶対に全力で集中しないといけないやつ。ほら、こんなにも工程が多いのだ。それなのに、白南風さんのことだけ考えてそれらをこなすなんて、と。


 だけど、現にいま、頭の中は彼のことでいっぱいだ。具体的に何をどう、というのはないけれど、アイシャドウを塗るために瞼を閉じる時、浮かんでくるのは彼の顔だったりする。こういうことなんだろうか、と思う。彼が望んだことは、こういうことなんだろうか。


 今日、白南風さんに会ったら、自分の気持ちを伝えてみようか、なんて考える。もし本当にあの彼女とは何でもなくて、彼が私のことを好いていてくれているとして、その先に結婚もあるのだとしたら、あのプロポーズが冗談じゃなくて本当だったのなら。ただもちろん、白南風さんの悪い冗談じゃなければ、だけど。あんなに真剣な目で伝えてくれているというのに、まだどこか、夢を見ているような気持ちで信じられないのだ。


 でも、少なくとも、質の悪い冗談に高級ホテルのディナーまではしないだろう。ましてやクリスマスだ。信じても良いのかもしれない。


 ケープを外し、髪を仕上げて、鏡を見る。いつもよりは、まぁまぁきれいなんじゃないかな、と思える自分がいる。とりあえず、これで良いんじゃないだろうか。


 そう言い聞かせている時だった。


 ベッドの上に置いていたスマホが震えた。メッセージだろうか、と手に取ったが、着信である。相手は――、


「麻美さん?」


 弟の奥さんである麻美さんからだった。ものすごく嫌な予感がする。もしかして、また蓮君を預かってほしいとか、そういう……? いや、でも今日はクリスマスだし。クリスマスって普通家族と過ごすよね? とはいえ、弟が継いでいる実家の食堂は基本的に盆暮れ正月の数日しか休みがない。だから我が家は昔からクリスマスなんてなかった。チキンやケーキはもちろんあったけれど、クリスマスらしいクリスマスではなかったと思う。ツリーは店に置いてるからという理由で家にはなかったし、そのチキンやケーキだってお客さんに混じって座敷で食べていたのだ。忙しなく働く二人を見ながら、義孝と向かい合って。常連さんは私達にジュースをご馳走してくれたり、プレゼントをくれたりした。それで、ある程度大きくなったら手伝いに駆り出されたりもした。


 それでも枕元にはプレゼントがあったし、それが私達のクリスマスだった。義孝がいまもそのクリスマスを踏襲しているかはわからない。もしかしたらその日くらいはと店を早く閉めるなりなんなりしているかもしれないけど。


 あっ、もしかして、私が送ったプレゼントに何か不備があったとか? 麻美さんからのリクエスト通りのものを送ったんだけど。


 そう考えながら、『通話』をタップする。


『あっお義姉さんすみません。いま大丈夫ですか?』

「大丈夫、ですけど。あの、どうしました?」

『ごめんなさい、ちょっとの時間なんですけどぉ、蓮のこと見てもらえません?』

「え、っと。私、今日は七時から予定が」

『えっ? お義姉さんが、クリスマスに? あっ、もしかして、婚活うまくいってる感じですかぁ?』

「ま、まぁ、そんなところ、ですかね」

『へぇー、すごいすごい。良かったですね。あっ、じゃあ六時には迎えに行きます。それなら大丈夫ですよね? 場所どこです?』

「あの、六月町のホテル・ジュノーなので、六時に来てもらえれば、大丈夫です」

『え? はあぁ? ジュノー? クリスマスに? ジュノーのディナー?』

「あ、はい、そう、みたいで」

『へぇー、そうなんですかぁ』


 いつものリオンモールなら、ホテルもタクシーで五分だ。クリスマスだからもしかしたら捕まらないかもしれないが、歩いていけない距離でもない。お化粧を直す時間を考えても、一時間もあれば余裕である。だから、


「あの、絶対に六時にはお迎えお願いしますね」


 そう念を押して通話を終えた。

 こんな余所行きの恰好でリオンに行くのか、それも甥っ子と、という点についてはいささか気にはなるものの、まぁ仕方ない。でも一時間半くらいだし。でも、念には念を入れ、七センチのハイヒールはやめて、低めのパンプスに変えた。そこは本当に英断だったと思う。


 いつも通りにモール内で軽く遊んで、その時を待つ。


 が。


 六時十分を過ぎても、麻美さんからの連絡はなかった。こちらからのメッセージも、電話も、無視である。


 どうしよう、もしかして何かあったのでは。

 でも、だとしたら、さすがに義孝に連絡がいくはずだし、それで私のところにも来るだろう。だけど、それもない。


「ねぇ蓮君、ママって今日、どこで誰と会うとか、どんな用事があるとか、なんか言ってた?」


 そんなことを聞いたところで現状は何も変わらないのだけれど、それでも聞かずにはいられない。今日はクリスマスで、本来は家族で過ごす日だ。義孝はまだ仕事中だろうけど、でも母親がいるのなら、せめて母子二人ででも。そう思うのは、私だけなんだろうか。


「わかんない」


 蓮君の答えである。

 お腹が空いたと言うので、連絡が来た時にすぐ出られるよう、モールの入り口付近にあるドーナツショップで一口ドーナツが五つ入ったボックスとジュースを買った。


「なんか電話がきて、それで、ママ急いで準備してた」

「そうなんだ。じゃあ本当に急に用事が入ったんだね」


 それなら仕方ない、のかな?

 でも、クリスマスに一体どんな用があるのだろう。

 

 時刻は六時十八分。正直ちょっとまずい。


 これだけはしたくなかったけど、と弟の義孝に連絡することにした。


 蓮君を迎えに来てほしいと言うと、「どうして姉さんと蓮が一緒にいるんだ?」とかなり強めに聞かれたけど、そんなことを言われても困る。だってそもそもそっちで蓮君を見られないからこっちに連絡が来たんじゃないの? そう言い返したかったけど、言い合いしている時間も惜しい。それよりもこっちも予定が詰まっているのだと伝えると、すぐに迎えに行くと言ってくれた。


 それから待つこと、十分。かなり慌てた様子の義孝が迎えに来てくれ、丁重に詫びられた。それで、待ち合わせ場所まで送ると言われたので、お言葉に甘えて車に乗り込んだ。

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