第25話 液体の掃除って大変なんですよ?

 とりあえず、白南風さんが来てくれたので、私はもうここから何もしゃべらなくて良いはず。そう思って、貝のように押し黙っている私である。怖かった。本当に怖かった。なかなかないよ? 大人になって仕事以外のことでここまで怒られるのとか。ていうか、仕事で怒られるのとは毛色が違うし。


 もう何ならここからは完全に他人事モードで小説を読んでいたいよ。あとはもう二人で話し合っていただけません? 私関係ないんで、って。でも確実に怒られるだろう、サチカさんに。


 とにかくここまで来たら『本命彼女』としてやり過ごすしかなくなってしまった。だけど私が何かしゃべれば絶対にボロが出る。何の打ち合わせもしていないけど、白南風さんを信じて任せるしかない。


「というわけで、諦めてくれサチカ。お前、実際に会ったら諦めるって言ったよな」

「言ったけどぉ。納得出来んくない? だってこんなおばさんだよ? こんなのどう見たってあたしの方が良いじゃん。その辺のお客さんに聞いてみよ? 絶対あたしって言うし」


 まぁ、それはそうなんだろう。どう見たって私かサチカさんだったらサチカさんの方が白南風さんに合う。年の差だってサチカさんとなら三つだし、これくらいならまだ何とか?


「マチコさんをおばさんとか言うんじゃねぇよ」

「は? だって三十二だよ? おばさんじゃん」

「お前だって三十だろ。なんぼも変わんねぇから」

「変わるし。あんね、女は三十過ぎたら、一歳の重みが違うの」

 

 ええ、わかります。それは確かにあります。


「こんなだっさい地味女のどこが良いわけ? どうせ、金でしょ。養ってもらってるから、逆らえないんだ? てかさ、飲食だよ? 若い子と混じってさ、恥ずかしくないのかなって思うわ。あ、でも厨房か。こんなおばさんがフロアにいたら食欲失せるもんね」


 まぁ合ってる。調理場勤務ですから。でも、反論させてほしい。確かにおしゃれなカフェの給仕がおばさんだったら華がないかもしれないけど、大衆食堂ならむしろそっちの方が安心感があって美味しそうに思える気がしませんか? まぁ、その場合も、私のような地味で暗いおばさんではないんだけど。


 そんなことを考えていると、いまだに掴まれたままの手に、キュッと力が込められた。何事、と白南風さんをちらりと見ると、横顔でも『怒っている』とわかる表情だ。


「いい加減にしろよお前」

「ハァ?」

「お前のそういうところだよ」

「何がよ」

「何様のつもりだか知らねぇけど、お前いつもすれ違う人すれ違う人、ああいうところが駄目だとか何だとか下げることしか言わねぇじゃん。周りを下げたってお前の価値は上がらねぇよ。現状何も変わってないっていい加減気付け」

「は、はぁ?!」

「常に周りを見下してねぇと自分を保ってらんねぇんだろ。マチコさんはな、そんなことしねぇから。それだけでもお前の万倍魅力的だわ」


 いや、それはどうでしょうか。どう見てもサチカさんの方がきれいだし、魅力的では?

 ああでもいまは『本命彼女』って設定ですもんね。嘘でもそう言わないとですよね。


「それに何だよ、金って。俺、マチコさんに貢がれたことなんかねぇし」

「だったら何でよ! こんな女、貢ぐくらいしか能ないじゃん、絶対!」

「んなことねぇわ」

「だったら何であたしが仕事辞めたらいきなり別れ話したわけ? そういうことじゃん! 稼ぎのある女の方が良いってことでしょ?! だったらあたしが働いたらヨリ戻してくれるってこと?」

「いや、お前が働いたところで何も変わらない。俺はマチコさんが良いの。ていうか、別れ話ってのも間違ってるから。別れるも何も最初から付き合ってないし」

「ヤることヤッてんじゃん!」

「それはいまさら否定しない。ヤッた。それはごめん、マチコさん。本当にごめんなさい」

「え、いや、あの、私に謝らなくても……」


 何でそっちに謝るのよ、あたしに謝りなさいよ、とサチカさんが身を乗り出している。怖い。このまま殴りかかってきそう。けれど白南風さんはどこ吹く風である。


「マチコさんに謝らないで誰に謝るんだよ。丸刈りにでも何でもするし、スマホも破壊してくれて良い。お願い。俺のこと嫌いにならないで。もう絶対にしない。マチコさんだけにする」

「い、いえ、ええと別に丸刈りとかそこまでしなくても……?」


 常に語気も鼻息も荒いサチカさんに対し、白南風さんは至って冷静だ。それでも、隣に座る私に向き直って謝罪の言葉を述べる彼の声は少しだけ震えている。すごい。ものすごく演技派だ。どうしよう、私、そこまでうまく演じられる自信ないんだけど。正直そんな謝られても困る。この場合『本命彼女』としてはどう動くのが正解なんだろう。


 いまにも泣きそうな目でこちらを見つめて来る白南風さんになんと返したものかと困っていると、


「ヤリ捨てかよ!」


 サチカさんが声を荒らげた。


「三十の女捨てるとか、マジ最低! あたしの時間返せ!」


 そう言って、立ち上がる。

 これはいよいよヤバいかもしれない、と思い、咄嗟に彼の手を振りほどいて彼女の近くにあるお冷のグラスをすべて自分の方に寄せた。そうしてから白南風さんのアイスカフェラテも危険だと気付き、それも合流させる。サチカさんと私が飲んでたホットコーヒーのカップは空だったけど、念のためそれも集めた。それらをまとめて、彼女に取られないよう、覆い被さるような姿勢になってガードする。


「え、ちょ、何このおばさん。何やってんの」

「マチコさん? どした……?」

「え、えっとあの、念のため、っていうか」

「念のため? 何の?」

「あ、あああのあのあの、ドラマとかだとこういう時よく、お冷をばしゃーんって」

「やると思ったの、コイツが?」

「はい。なんかその、勢いで、っていうか」

「え、ひっど。このおばさん酷くない? あたしのことそんな風に見てたってこと? ほら、恭太、やめた方が良いって。こうやって人のこと悪者に仕立て上げようとするような卑怯な女だよ、この人」

「外でいきなりビンタするようなお前に言われたかねぇだろうよ。うん、そう思うよな、マチコさん」


 わかるわかる、俺のこと守ろうとしてくれてありがとうな、と言いながら、ゆっくり頭を撫でられる。いや、あの、そういうのは本当に結構ですから。


 だってね、たとえ水でも、液体の掃除って結構大変なんだよ? まだ水なら良いけど、ここのソファは布張りだし、滲みたら大変だし! ましてやカフェラテとか地獄でしかない。もちろん季節が季節だし、かけられた方だって風邪を引いてしまうかもしれないし!


「はあぁ? まだこの女の肩持つわけ?! おかしいじゃん! 大人しそうな顔してさ、さもさも自分は何も悪くありません、何も知りませんみたいな顔してうまいこと男に取り入って、そんであたしのこと陥れようとしてんじゃん! どこが良いの、こんなおばさん!」


 だん、と両手でテーブルを叩く。見かねた店員さんが「お客様、もう少しお静かに」と声をかけてきた。サチカさんは口では「すみません」と返しつつも、目が謝っていない。


「そろそろ黙れよ。そうやってキイキイ騒ぐことで自分の価値を下げてることに気付け。お前はさ、品がないんだよ。年相応の落ち着きもない。俺は若けりゃ若いなりの、年いってりゃいってるなりの魅力があると思ってるけど、お前にはないんだって」

「あたしにないわけない! こんな地味女に負けるわけない!」

「悪いけど完全敗北だわ。俺のマチコさん、薄化粧でも十分きれいだし。こういう恰好だって、あえてしてもらってんの。この人が他の男に掻っ攫われないように」


 そう言ってから、今度は肩を抱かれた。


「気が気じゃねぇんだわ。周りの男がマチコさんの魅力に気付いてしまわないか、って。本当は家に閉じ込めておきたいけど、外で働きたいって言うからさ。だからせめて、恰好だけでも大人しくしてもらってるってわけ」


 つまり――、と白南風さんは、テーブルの上を軽く小突いた。その小さな音で、サチカさんと私の注意が一旦そっちへ向けられる。

 

 その隙に。


「だから、お前の入り込む隙間なんか一ミリもねぇんだわ。俺、この人のこと本気だから」


 ゆっくりとそう言って、私の頭に軽く口づけをした。やめて! 一日しっかり働いたんで、汗かいてますから!

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