悪鬼の群れ
北の大陸は距離的にそれほど遠くはなく、海峡の向こう側にある陸地が見えた。
殺伐とした景色に不安を覚えるのか。
到着してから、ゾワゾワしたような鳥肌が立つ感覚が消えない。
何だろう、これは……。
わたしは、いったい何に怯えているのだろう。
夜の暗闇、街灯から外れた人通りのない路地の、崩れかけた空き家の前に立ったときに感じる、そんな訳もない不安な気持ち。
なんでもないのだ。
そう考えるほど恐怖がわいてくる。
その理由に気づき、はっとした。目に見えるものが常識的じゃない。
白い靄に包まれた海の向こう側、北大陸の海岸線が黒く染まっている。
雪が降ったのだろう。対岸の木々は枯れ、陸地を白く染めているのに、海岸沿いの氷が張った部分が黒かった。それがあり得ないような動きをしている。
黒い流氷?
そんな不自然なことがあるはずない。
「あれは何?」
氷がせめぎ合う音が混じり、キィーキィーという、かすかな音が海を渡って聞こえてくる。
「あれとは?」と王が聞いた。
「海外線が黒くて、奇妙な鳴き声が聞こえてくる」
「わたしには聞こえないが」
「エドも聞こえない? わたしだけなの……、空耳かしら?」
エドワルディはヒョロッと背が高く、がっしりした王と背丈は同じだが、横に並ぶと細身のために低く見える。
その彼がゆらゆらと身体を揺らしている。
「エド」
「あ、は、はい」
「どうしたの?」
彼は対岸を憑かれたように凝視していた。まるで恐れていたことが起きたかのように、青ざめている。寒さのためではなく、恐怖で震えているように見えた。おそらく、向こう側に見える黒いものが何か知っている。
「エド、あなた、あれが何か知っているのね」
「あれ……、とは?」
「あれ、あの黒く蠢いているものが悪鬼なの?」
エドワルディの鼻が寒さで赤くなっていた。鼻を啜る姿も弱々しく、うわの空で、わたしの声が聞こえてないようだ。
「何を隠しているの」
「あ、あの、何も……、隠しているわけじゃありません。ただ確信が持てないのです。どう話していいのか。以前、父が現地調査に行ったことをお伝えしました」
「ええ」
「父を含めて四人構成で、あの場所までは帆船で向かったのです。飛んでいくには距離がありますし、物資も持っていく必要がありましたから」
「でも悪鬼は発見できなかったのね」
「できませんでした。それでも、部下たちは帰ってきませんでした。戻ってきたのは父ひとりです」
「悪鬼は発見できなかったのに、なぜ?」
「今も、父がなぜ亡くなったのか、理由がわからないのです。父は事故で部下を失ったといい、非常に弱っているように見えたそうです。わたしは幼かったために、実際の状況は知らないのですが。戻ってすぐ、父は屋敷の離れ屋にこもると、誰にも会わなくなったのです。そして、離れ屋が燃え、父は亡くなりました」
海が鳴っていた。
氷がバキバキと音を立て、お互いにぶつかりあい、せめぎあい、繋がり、徐々に道ができ始めている。
「何があったのか、父にもわからなかったのだと思います。焼け残った記録の最後の言葉は、『わが一族の者に書き残す。二度と北大陸に調査に行くな』という一文でした」
「その記録はあるの。見せてもらってもいい?」
「戻ったらお見せします」
風がさらに冷たさを増し、鼻腔の奥まで凍えるようだ。
王が、ふたたび傍らに来た。
「寒くはないか?」
「マルキュスが万全の準備をしてくれましたから、それでも、この急激な温度の落ち方は異常だわ。向こう側は、すでに雪で真っ白になっている」
「雪とはなんだね」
「氷の結晶というか、雨粒が寒さのせいでとけることなく白く固まって落ちてくるのです」
「ほお」
「これほどの寒さなら、こちら側でも、すぐ降ってくるでしょう」
「震えているな。その細い身体で、この寒さは堪えるであろう」
王は、そう言うと、わたしの背後にまわり、彼のマントですっぽりとわたしの身体を包みこんだ。
ぬくもりを背中に感じる。
王の腕が背後からわたしを抱いた。
その手から逃げるべきだと思ったができなかった。それを、わたしは酷く寒いせいだと言い訳した。
カテリーナが納得するとは思えないが、それでも、温かい身体に包み込まれていると安心できた。
(ごめん、カテリーナ。寒いの)
彼女は何も言わなかった。
「さあ、見るべきものは見た。長くいては凍え死ぬ。帰るぞ」
王の号令に全員が翼を広げた。
わたしは王の胸のなかで、横抱きにされると、抵抗するまえに空中にいた。
「王さま」
「クリストフだ」
「おろしてください」
「高い場所が怖いのであろう。わたしのマントのなかなら、飛んでいることがわからない。それに、寒くなかろう。わたしも暖房が必要だ。おまえは温かい」
からかっているのだろうか。
来るときよりも、一段と気温が下がり、確かに吹きさらしの輿に乗って恐怖を感じるより、このほうが温かく快適だ。
空を駆ける羽の音が聞こえる。
しばらく、身を委ねていると、ふっと身体が宙に浮いて、そして、次に足が地面を感じた。
「さあ、到着したぞ」
「もう」
「なんだ、まだ抱かれていたかったか」
わたしって、なんて愚かなんだろう。
マントの前が開くと、王宮の北側にいることがわかった。自分の足で立って歩こうとすると、ふらふらする。
「威勢はいいが、世話の焼けるやつだな」
王がわたしを支えたとき、カテリーナの声がした。
──お姉さま!
その声でフィヨルが迎えに来ていることに気づいた。
親しげに寄り添う、わたしと王の姿を見つめているのを、カテリーナが気がついた。
「カテリーナ!」
フィヨルが王の妃を呼び捨てした。
(つづく)
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