恋人たち



 フィヨルを探して回廊を走り、謁見の間に向かった。ときどき手すりから身をのり出して外を眺める。


 ──お、お姉さま、急いで。


(謁見の間の裏庭とは限らないから、念の為に庭を確認しているのよ)


 ──まああ、お姉さまって、本当に賢い。


 単純に喜ぶカテリーナに、なんだか胸が痛くなる……。

 わたしが庭園を覗き込むのは、美しいからだ。アルハンブラ宮殿ファンとしては、やはり見学したい。


 様式美を誇る庭園は棟ごとにテーマが違って興味深い。

 どの中庭も花壇の中心に長方形の池が配置され、ハーレムの次の棟では、段差がある池から水が滴り落ちている。

 せせらぎの音が常に聞こえるように設えてあるのだ。

 その音が心地よく耳をくすぐる。


 こんな美しい庭園を鑑賞しないなんて。そう考えるわたしと、必死にフィヨルを探すカテリーナの間には超えられない壁があった。


 ──お姉さま、裏庭って、謁見の間の裏ですよね? もし、違っていたら、フィヨルが待っていますのに、どこを探したらいいの。ああ、フィヨル。必ず探し出してみせます。


(カテリーナ。フィヨルのこと、すこし冷静になって)


 ──ええ、冷静に裏庭のことを考えてみます。


(考えるべきことは、そこじゃないわ。

 冷静に比較して欲しいのよ。いくら焦っていたとはいえ、裏庭で待っているとメモを寄こす仕事のできない男と、あの大きな川から、それも暗い夜のなか、わたしたちを探しだして助ける有能な男についてよ)


 ──何をおっしゃりたいの?


(例えばよ、もし、これがあの猛禽王だったら、もっとましな待ち合わせ場所を選んだはずだし、そもそも救いに来ているはずよ。

 彼には金も権力もあって、おまけに、恐ろしいほど色気のある大人の男よ。ま、ちょっと他に女がいるって、多少の欠点はあるけど)


 ──お姉さま。恋をしたことがありませんの? 恋は条件の良さでするものではありません。


(婚活市場のリアルを知らないのね。結婚は、まず条件からよ)


 ──寂しい言葉です。愛されることの素晴らしさをお姉さまにお教えしたい。でも、それにはまず、あの方を探さなければ。


(まったく、全わたしがため息をつくわ)


 ──『謁見の間』の裏にある庭まで、急ぎましょう。


 わたしは回廊を全速力で走った。

 走りたくはなかったが、カテリーナの感情が強すぎて、わたしの心を支配しはじめていた。

 スカートを両手で持ち上げ、一途に走る。その姿は、まさに恋する乙女そのもので、死に物狂いだった。


 途中、壁に組み込まれた鏡に、カテリーナの全身が映った。


 これまで可憐でかわいい子だとは思っていたが、今は全身から恋する乙女オーラを発して光輝き、まるで女神のようだ。いや、天神だけど。女性ホルモンがなせる匂いたつ艶めかしさ。ちょっと羨ましい。わたしはこれほど誰かに恋焦がれたことがない。


 その一方で大人のわたしがため息をついている。というのも、こうなった時の女は手がつけられないものだ。

 恋する女は、周囲がなにも見えなくなる。


 秘書課で働いていたときもそうだった。恋に落ちた瞬間、それまでしっかり仕事していた子が、急にミスが多くなる。ついでに瞳が潤んでいれば、恋して仕事どころじゃないんだとわかる。

 就業中でもスマホを手から離さず、つねに相手と連絡しあう。それが、また、周囲からすると馬鹿げた内容で。


 甘々メールは、他人からすればバカバカしいが、本人たちは真剣だ。

 冷静になったときが怖いと思うけど。

 誰かに見られたら穴に入りたい、永久に地中深く埋めたい黒歴史メールが残る。そして、これは世の真理なのだが、たいていそういう恥メールは誰かに見られている。


 まさに今のカテリーナがそうだ。

 空を飛ぶ様に通路を走り、外へ出ると、『謁見の間』の周辺を、走る、走る、走る。


 ──お姉さま、フィヨルさまは、どこに?


(んなこと、わたしに聞かれても)


 ──ああ、胸が苦しいです。なんだか死んでしまいそうで……。


(パニック発作を起こさないで、酸素不足で倒れたら困るわよ。一緒の体なんだから。少し休みましょう。体が壊れてしまうわ)


 ──お姉さま、わたくし、わたくし。


 背後から声が聞こえた。


「カテリーナさま!」


 その声に、カテリーナはビクっと反応した。

 獲物を見つけたハンターのように、あるいは、獰猛な肉食獣に襲われそうな子リスのように。

 ただ、心を震わせる。

 それがフィヨルの声だと鈍いわたしでも気がついた。


 カテリーナが完全に身体を支配した。喜びに胸を躍らせ、スカートを翻して声の方向に振り向く。

 ふんわりとスカートが揺れ長い髪に顔の半分を隠されても、振り返った先に誰がいるのか明らかだった。


「フィヨルさま」

「カテリーナさま」

「フィヨル……、フィー」

「リーナ」

「フィー」

「リーナ」


 愛情を込めて名前を呼び合うふたりは、目の光から、震える手から、全身で愛おしさを表現していた。

 ほとばしる愛の光。

 このふたりは運命なのだ、誰も間に入ってはいけない。てか、入りたくないけど、この身体、カテリーナと共有しているから。


 愛の言葉もなく、近づくでもなく、まして抱き合うこともなく。

 ただ、お互いに名前を呼び合っている。


 これは喜劇なのか、悲劇なのか。どちらを選択すればいいのか、わたしだけが迷っていた。



(つづく)

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