悪鬼の正体
オンニ侯爵の記録によれば最初の犠牲者は二人だ。
彼らは噛まれた傷口が腐りはじめ、発熱して頭痛を訴え、身体が黒ずみ錯乱したと書いてあった。
この記述が引っかかった。
致死性の毒を飲んだように、一昼夜ほどで症状が出ている。感染しやすく、そして、病変が現れるのも早い。これは身体に免疫がないからだろう。
悪鬼とは、あるいは、形がないウイルスのような病原体かもしれない。病気に侵された人が連鎖的に同じ症状を引き起こし、さらに彼らと接した人が感染する。
伝染病の知識が乏しい人びとは、感染した人を悪鬼と誤解したのかもしれない。
この王国は中世時代に似ている。多くの人びとは悪魔や呪いなどを信じている。
もし、致死性ウイルスに感染したとすれば、媒介したものがいるはずだ。
おそらく、それは海岸線をおおうネズミに似た黒い小動物だ……、と思う。それを確信できるほど自信を持てればいいけれど。
中世ヨーロッパでは、ペストに感染して多くの人が犠牲になった。
これはネズミに巣食うノミが原因だった。ネズミが媒介してペストが流行し、人口の三分の二が犠牲になるという大惨事になった。
「どうされたのですか、コハルさま」
部屋に入ってきたマルキュスが聞いている。
「マルキュス、王さまはどこ? わたしの仮説が正しければ、防御態勢はまったく異なる。すぐに王さまと話さなきゃ」
「どういう意味でしょうか?」
「時間がない。王のところへ」
「おそらく、武器庫にいらっしゃるかと。ご案内します」
わたしたちと共にエドワルディもついてきた。
「コハル、父の記録で何かわかったのか?」
「たぶん、悪鬼の正体がわかった……と、思う。エド、お父さまの尊い犠牲のおかげで、何十万人の人びとが助かるかもしれない」
マルキュスによれば、王は悪鬼島から戻ってすぐ、武器の点検と増産をはじめたらしい。
海岸線から見えた黒く蠢くものが悪鬼だと予想したのか。
オンニ侯爵の記録には、こぶし大の黒い体毛をもち、赤い目が特徴的なネズミが生息していたと書いてあった。いや、もっと言えば、ねずみ以外の動物が生息していなかったと。
寒さで餌の木の実が枯れ落ち、白い氷の世界になった北の大地。ネズミは餌を求めて、こちら側に渡ってくる。
それが悪鬼なのか。
中世ヨーロッパで猛威をふるったペストもそうだが、伝染病を防御するための方法と、悪鬼として襲ってくる化け物を武器で攻撃するのとは、まったく異なる。
弓や剣や槍など役に立たない。
「急ごう、マルキュス。時間が迫っている」
寒さは一段と深まり、パラパラした白い雪が落ちて、肌で溶け水滴にかわる。
「ついに、雪が降ってきたわね」
「コハルさま、雪とは、この白いものですか」
「そう、冬になったのね」
まだ、大粒の水を含んだぼたん雪だが、寒さが増せば粉雪になり吹雪となって、大地を白く覆うだろう。
海が凍る。
「コハルか。何を急いでおる」
王が武器庫から出てきて、わたしを認め声をかけてきた。
「王さま」
わたしは、そこで立ち止まった。
一瞬、迷いが生じた。
自分の憶測が間違っているとすれば、実際に悪鬼が存在し、この地を襲ってくるとすれば、わたしが進言する対策はまったく無意味だ。
ブローズグフレイの六十万の民のみならず、近隣諸国の生命にも関わってくる。
それを思うと、恐ろしかった。
「王さま」
次の言葉が続かない。王は従者を引き連れ、大股で歩いてきた。
「どうした。何かわかったのか」
「ええ、たぶん」
「たぶんか、おまえにしては控えめだな」
「あの、わたし、怖いのです」
わたしの言葉で防衛体制もすべてが変わる。その責任を取れるのだろうか。おそらく……、王は常にこの重い責任と戦い耐えているのだ。
王はずっと寝ていない。その顔には疲労の色が濃くあらわれ憔悴して見える。
この国と民を守ろうと必死に戦っているのだ。
「どうしたのだ。あの怖いもの知らずのおまえが、何を言い淀んでいる」
──お姉さま。わたしはお姉さまを信じています。
「もしかすると、わたしたちは完全に間違った防衛策を講じているのかもしれません」
「どういう意味だね」
「それを言うのが怖いのです。確信があるわけじゃありませんが」
「ならば、言うな」
「でも」
「良いか。食料問題から、武器の配置、さまざまな難問がある。民たちの怯えにも対処せねばならない。立ち止まっている場合ではない。その話を聞くべきときなのか、自問しろ」
(カテリーナ。わたし、怖いわ)
──お姉さま、思ったことを話すべきです。
「聞いてください、王さま。おそらく悪鬼とは人なのです」
「どういう意味なのだ。いや、待て。この話を聞かれてはまずいだろう。さまざまな憶測や噂が広がって民は無闇に怯えている。マルキュス、ダグマと宰相を執務室に大至急来るように呼べ。来い、コハル」
「エド、お父さまの記録を持ってきて」
「わかった」
マルキュスが背後に控える者に伝言を命じ、エドワルディが走りさった。
「王さま……、ダスティン宰相は王さまにとって政敵で、ことごとく反対なさると聞いておりますが。今、呼ばれるのが、その、宰相なのですか?」
「表向きは、そうだな。あれはそうすることで、わたしを守っているのだ。むしろ、味方に見えるウーデン侯爵のほうがタチが悪い」
「オーブリー妃の父親ですか」
「ハーレムに詳しくなったようだな。急ぐぞ、偵察からの報告では、われらにそれほど時間は残っていない」
雪のなかを、王は大股で歩く。その広い背中を見ながら、ついていくために、わたしは小走りになった。
執務室に戻ると、ダグマがすでに待っている。
「クリストフ、わたしは忙しい。呼び出したのは、よほどの事なんだな」
「ああ、ダグマ。この妃がな」
すぐに宰相やエドワルディも、マルキュスとともに入ってきた。
「マルキュス。わたしが良いというまで、ここの警備を万全にしろ。この近くに誰も寄せ付けるな」
「かしこまりましてございます」
「では、話してもらおうか。コハル」
王がまっすぐな視線でわたしを見ている。
(つづく)
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