第2章

悪しき思い




 なかば強制的とも思える強引さで、猛禽王は自分の直属機関として、わたしたちを召し抱えた。

 そのお陰で大手をふって文書庫での作業もできるだろう。


「王さま、では、われらは何と名乗ればよろしいでしょうか」と、律儀なマルキュスが聞くと。

「王直属の特別諮問機関とでも名乗ればよい。わたしの印章を与えよう。用意しておくので、取りに参れ」と笑った。

「では、これ以上、邪魔はしない。みな、無理をさせるが、頼んだ」


 そう言って王は帰った。


 王が去ったあと、空間に穴が開いたような一抹の寂しさを感じる。その理由はなんだろう。たぶん、それを感じたのはわたしだけじゃない。

 クリストフ王が去り、誰もが少し黙った。

 それから、口を開くのに、しばらく時間がかかった。


「早速に質問したいのです。オンニ侯爵」

「なんなりと」

「ところで身分など別にして、仲間としてタメ口で話してもいいかしら?」

「もちろんです」


 エドワルディは口数が多くないが、短い言葉で端的に応える。


「寒期が訪れ海が凍ったにしても、なぜ、こちらの大陸まで襲ってくるのだろう。その理由はわかっているの? エドワルディ……、長いわね、今からエドって呼んでもいいかしら」

「ご随意に」

「では、エド。わたしはコハルだから。敬称はいらない、みんなも今日からお互い、仲間として呼び捨てでいこう。いいかしら、オンニ侯爵」

「問題ありません、コハル」


 マルキュスがいつものように眉をあげ、フィヨルが「なぜ、コハルなんて名乗るんだ、カテリーナ」と抗議している。


「ええ、フィヨル。今は細かいことは忘れて」

「でも、カテリーナ。そんな」

 

 わたしは彼の口を右手でふさいだ。


「ちょっと、二人で話してくるわ。この子、いろんな誤解をしてて」

「僕はなにも……」

「来て! フィヨル」


 強引に彼の腕をつかんで引きずり、文書庫の奥に入った。


「フィヨル。わたしをコハルと呼べば、あなたが恋する女には見えないのよ。私たちの関係は、けっして公にする訳にはいかない。わかる?」

「でも、カテリーナ」


 ──お姉さま、かわって。わたくしが説得するわ。


(そう、よかった。頼むわ、カテリーナ。子犬みたいに目を潤ませてるから。なんだか弱いものいじめしている気分よ)


「フィヨル、わたしは王のことをなんとも思っていないの」


 フィヨルは、はっとした表情を浮かべ、それを隠したが未熟だった。そうか、彼は嫉妬しているのだ。


「ねぇ、覚えている? これまでも、わたしたちは隠れて恋をしていたわ。それが運命みたいに。悲しかったけど、でも、少しだけワクワクしたの」

「カテリーナ」

「だから、これは恋の遊戯だと思って、わたくしをコハルって呼んで。そして、コハルの時は、わたくしたちは従兄弟同士よ。じゃないと、ふたりとも不義の罪で処罰される……、ね、どうか、わたくしを困らせないで」

「ああ、愛しのカテリーナ。がんばるよ、あなたに、それができるなら、僕もがんばれる」

「ありがとう、フィヨル。愛してるわ。じゃあ、戻りましょう」

「わかった、カテ……、いや、コハル」


 再び、カテリーナと変わって、みなの元へ戻った。

 マルキュスが皮肉な目付きをしている。いったい、彼はどれほどこの複雑な状況を理解しているのだろう。

 猛禽王がもっとも信頼する家令だ。いろいろな事情がマルキュスを通じて王に筒抜けかもしれない。


 ともかく、王は協力的だった。

 ということは、マルキュスがフィヨルを青色認定したように、優先順位からすれば、わたしもマルキュスを青色認定すべきだ。悪鬼問題と比べれば瑣末なことにちがいない。


「エド、まず知っていることを教えて」

「わたしの知識は、すべて二百年前のもので、いわば聞き伝えです。どこまでが事実で、どこまでが虚構なのかは、実際のところわかっていません。わが一族は、時の王から命じられ、長い年月をかけて悪鬼の調査をしましたが、それとて後世の伝聞です」

「もどかしいわね」

「実は、数十年前に悪鬼の住む北大陸に、探検調査を行ったことがあります。父を主に研究者たちと行ったのです」


 エドワルディは、古びた羊皮紙の束を見せた。

 そこには、北大陸の海岸線から内陸部の地図があり、どこまで彼らが冒険したか描かれていた。


「悪鬼の生息地に向かうなんて、無謀な試みね」

「一族には翼があり、いざとなれば空に逃れるという手段がありますから」

「それでも、決死の調査でしょう」

「問題は、そこではありません。こちらに大挙して押し寄せてきた悪鬼の数です。それほどの数ならば、北大陸に多く生息しているはずです。調査隊の目的はその一体を研究のために捕獲することでした。しかし、徒労に終わりました」

「どういう意味ですか」と、マルキュスが聞いた。

「調査したのは海岸線と、少し森に入った地域でした」


 エドワルディは、そこで一旦、口を閉じ、それからわたしたちの反応を確かめるように顔をあげた。


「悪鬼はどこにもいなかった。不思議です。疑問でもあります。二百年前の寒期に、この大陸に多大な被害を与えた悪鬼に、いったい何があったのか。あの時、何が襲ってきたのか。実際はまったくわからないのです。北大陸で悪鬼を一匹でも捕まえることができれば、解明することができたかもしれません。しかし、何もいなかった」

「動物もいないの?」

齧歯類げっしるいなど、ネズミのような小動物はいましたが、まったく大型獣はいませんでした。さらに奥地に踏み入ればいたかもしれませんが。うっそとした樹木に覆われた地はぬかるみが多く、シダに覆われた場所は太陽の光さえも届かない。そこで悪鬼に出くわせば飛んで逃げることも不可能で、それ以上踏み込むのは危険で断念しました」

「気候はどうですか? 北大陸は寒いのですか?」

「父によれば、こちらより多少は涼しいのですが。寒くはなかったようです。むしろ暖かく湿気に富んだ場所でした」

「つまり、湿気の多い温暖な気候だったと」

「そうです」


 地球上の熱帯ジャングルに似ているかもしれない。人の侵入を拒絶する暑く湿気の多いジャングルのような場所なのだろう。


「当時、寒期で食物がなくなり、食べ物を求めて悪鬼が森から出て、こちらの地を襲ったと推測することはできますが」


 窓の向こうからバタバタと叩くような音が聞こえ、全員そろって顔を向けた。

 強い風が吹き、雷が鳴りはじめると、次にどしゃぶりの雨になった。

 南国は天気の移り変わりが激しい。晴天だったあとに、急に驟雨しゅううになることは普通だ。


 しかし、この雨は常とちがう。

 誰もがそれを肌で感じた。

 降ってはすぐ止む、やわらかい雨ではない。屋根に穴が開きそうな激しい音とともに、氷の粒、あられが混じった雨が降っている。

 一段と空気が冷えた。


「これは雪になるかも」

「雪ってなんですか? コハルさま」

「マルキュス、そうか。南国だから、雪なんて降らないんでしょうけど」


 わたしは文書庫の扉を開き、外部に通じるベランダに出た。

 ここからは王宮の外の景色が見える。黒い雲が低く垂れ下がり、みぞれのような雨が降っている。

 バラバラと音がして、ベランダにも氷の粒が落ちてくる。

 城壁に囲まれた裏庭では、あわてた数人の使用人が、手で頭を守りながら走っていく。

 袖なしの衣服では、寒いだろう。


「上衣をどうぞ」


 マルキュスが薄手の上衣を持ってきたが、この寒さでは役に立たない。


「ねえ、コートはないの?」

「コートってなんですか?」


(カテリーナ、コートを持っていないの?)


 ──この国で厚手の衣装は必要ありませんから。ただ、オーランザンドの家には置いてありますけど。


(すぐに取り寄せたほうがいいわ。これは寒くなる)


 風が不気味に冷たかった。


「マルキュス、厚手の毛皮とかあるの?」

「敷物としてなら」

「じゃあ、王国中から毛皮を回収して、マントを作る手配をしなければ。悪鬼よりも先に凍えて死ぬわ。大量の薪もいるでしょうね。王に、そうそう、あるいはダグマ妃に伝えて。森の木を切って、燃料用の大量の薪を作るようにと。かまどに薪を使っているでしょう。だから方法はあるわよね」


 マルキュスは指示を羊皮紙にメモしていた。


「他にはございますか?」

「まずは薪よ。この国の民は六十万人くらいと言っていたわね」

「そうでございます」

「王命として、一家族が三ヶ月分の薪を自宅に蓄えるようにするのよ。王宮も、使用人全員に号令をかけて用意して。王宮以外に、地域ごとに命令系統の整えられた組織づくりがなされているはずでしょう。それを活用して伝達しなさい。この黒雲とみぞれ雨に、おそらくみな不吉なものを感じているはずね……。すぐに、冬が来る。誰も経験したことのない寒さがやってくる」


 家臣たちは逃げることを、まだ考えているのだろうか。時間は、どれほど残されているのだろう。




(つづく)

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