第3部第1章最終話




 文書庫で時が経つのを忘れていた。いつのまにか暗かった窓から、うっすらと朝の光が差し込んでいる。

 もう夜が開ける刻限なのだろう。


 徹夜をしても十八歳の身体は、それほど堪えていない。逆に妙に冴え冴えとしてくるのは、若さだろうか。

 そういえば、いつからだろう。

 徹夜がきついと思いだしたのは、二十代後半ぐらいだった気がする。


 大きく背伸びをすると、「失礼いたします」という声が入口から聞こえた。

 侍従たちが入る前から、美味しそうな匂いがして、朝食が運ばれてくるのがわかる。書棚の間にテーブルが置かれ、スープが湯気を立て、美味しそうな匂いが漂ってくる。


「マルキュス、気がきくわ」


 目をこすって、周囲を見渡した。

 マルキュスが寝不足の顔で首をまわしている。全員がぼうっとしており、フィヨルは机に突っ伏して眠っていた。


「わたしではありません。たぶん、これは……」

「これは、わたしだ」


 低音が響く、一度聞いたら忘れようもない声が聞こえてきた。

 ちらりと振り返ると、白いシャツをラフに着こなした王が歩いてきた。新月が終わっても、猛禽王はやはり魅力的だ。


「王さま、ご挨拶もいたしませんで」と、マルキュスが慌てて立ち上がり腰を折った。

「良い。疲れたであろう、食事をしながら話そう。相談したいこともある。それに、紹介したい者がおるのだ。……エドワルディ、こちらに」


 猛禽王の背後から、いかにも学者ぽく、ヒョロッとした体躯の物静かな男が現れた。

 細面の顔でこの国には珍しく色白の肌、薄い唇が酷薄そうだが、それらは知的な物腰に隠されている。


「彼はエドワルディ・オムニ侯だ。オムニ侯爵家の嫡男でね、昔から王都の屋敷で、寒期時代について研究してきた。まあ専門家だ」


 会いたいとは思っていたが、王が彼を先に連れてくるとは驚いた。エドワルディと軽い挨拶をすますと、王は食事をするようにと自らもスープをすすった。こんなところに優しさと心遣いを感じる。

 これこそが血塗られたと噂される真実の姿なのだろうか。


「先の会議では逃げるしかないと大臣たちが決定していましたが。わたしたちは籠城を考えています」

「動転している大臣たちを許せ。我が身を守ることしか考えていなかった」

「では、王さまのご意見は違うのですか?」

「ああ、そうだ。先にあたたかいスープを飲め。十歳は老けたような顔をしているぞ」


 カテリーナが十歳老けても、まだ、わたしの年齢にはならない。そう思うと笑えた。徹夜で少しハイになっているのかもしれない。


「まだ公にはできぬが、今後の対策メンバーとして、そなたたちを正式に任命しよう。必要なものは、なんでも申せ。便宜をはかる。それにしても酷い顔をしている。まずは食事を取れ」


 感謝を告げようとしたが、なぜか言葉にできなかった。

 王の態度に胸が痛くなったからだ。


 猛禽王は、『血ぬられた王』『残虐王』という噂だが、牢獄で知り合ったアニータたちが、それは嘘だと言っていた。

 彼女の見る目は確かだ。

 噂から勝手に想像していたイメージと実物は、かなり隔たりがある。


 態度に余裕があり、なにがあっても守ってくれるという安心感を与える大人の男だ。発情期とは関係なく、わたしは惹きつけられてしまう。


 オーブリーの妄愛も彼女が悪いんじゃなく、この王が悪い。


 ──お、お姉さま。


(なに?)


 ──ギラギラした目で王を見つめないでください。フィヨルが誤解しますから。


(カテリーナ、どうして、わたしの顔がわかるの。自分の顔は見えないでしょ)


 ──お姉さまって、賢いところと、とても間が抜けてらっしゃるところが同居されているのですね。視線を王さまから外して、書庫の向こうの窓をご覧ください。お顔が反射して見えますから。


 あちゃちゃ。

 確かに、北側の窓に顔がうつっている。


(あんたはフィヨル。わたしは王さまで、うまくいってるじゃない)


 ──身体はひとつですから。どっちもなんて無理です。それに、わたくしの身体に入ってらっしゃることをお忘れにならないで、ぜったいフィヨルですから。


 吹き出しそうになった。

 カテリーナは、ことフィヨルのことになると強くなる。


(カテリーナ、今はフィヨルと王と、二人にも協力してもらって、最善策を見つけなければならないわ)


 ──本当に、悪鬼はくると、お姉さまは確信なさっているんですね。


(来るわよ。残念ながら、諸事情があってね、間違いなく襲ってくると確信しているの。わたしたちは、その対応を間違ってはいけない。背水の陣というか、人生崖っぷちというか。ともかく、そういうことよ)


 スープの匙をおろして、わたしは真面目な顔で王を見た。


「王さま、お願いがあります」

「なんだね」

「こちらは騎士フィヨル・ジェラルドです。わたくしとは兄妹のように育ったオーランザンド王国の幼馴染です」

「それで?」


 フィヨルが前に進みでて、顔をこわばらせながら頭を下げた。フィヨルにとって、この王は恋敵なのだ。


「オーランザンド王国の騎士、フィヨル・ジェラルドです。以後、お見知りおきを」


 王は軽く目で挨拶すると、わたしを振り返った。


「なんだね、妃よ。願いとは、珍しいな」

「秘密裏でかまいませんので、彼を調査メンバーにしてください」

「ほお」

「人手が足りません。かといって、このことを公にすれば、多くの人が、おそらく恐怖で正常ではいられないでしょう。情報を守る意味においても、彼は有益です」


 王は目をすがめた。もしかするとフィヨルとカテリーナの事情を知っているのかもしれない。

 しかし、何も言わなかった。ただ、「よかろう」とだけ返事をしてから、全員の顔を見た。


「食事を終わったら、皆、少し休め。疲れたであろう」


 猛禽王も疲れた表情をしている。そういえば、彼が心から笑った顔を見たことがない。

 王と目があった。


「必ず悪鬼の襲来があると思っておられるのですか?」

「大臣たちは、まだ半信半疑だが怯えてもいる。わたしは北の海を視察してきた。考えていたより、急速に海に氷が浮かびはじめている」

「見に行かれたのですか」

「ああ、そうだ、妃よ。おまえが大臣たちに城壁で戦うようにと献策したと知って驚いたよ。この地で育ったわけでも歴史も知らないが、奇しくもわたしと同じ意見をもっているとは興味深い。さて、エドワルディ」


 エドワルディが王の横で頭を下げた。

 影の薄い男で、言われなければ、空気のように存在を忘れてしまう。


「エドワルディは学者の家系でね。それも、悪鬼襲来を口伝としてきた歴史学者の家柄だ。彼らは北の大陸に調査隊を送ったこともある。この件について、彼以上の専門家はいない。そもそも、この城の崖側に高い城壁を建てたのは、彼の一族が中心になったのだ。悪鬼について彼に聞くと良い」


 エドワルディは王の紹介にも口を挟まず黙っている。

 

「そうですか。知りたいことが多過ぎて助かります。しなけばならないことが多いと思いますが、それは素人考えで」

「この件については誰もが素人だ。話したまえ」

「そもそも、敵を迎えるのに、城はもっとも守りやすいのです。逃げるだけでは、ただ食い殺されるのを待つだけです。これは兵法の基本中の基本です」


 なんて言ってみたが、わたしの知識は浅い。

 シミュレーションゲームで得た知識とか、それによって興味がわいた戦国時代や三国志時代の受け売りだ。


「城壁を破られれば王国は廃墟と化すと、エドワルディも申しておる。時間的な余裕はそれほどない。城壁で敵を止める施策は早々に進めよう」

「寒期ということは、この地も寒くなります。食料を蓄える必要とか、本当に悪鬼が襲ってくるとすれば、その前にやる事は多そうです」

「ああ、そうだな」


 わたしはエドワルディを見た。


「エドワルディさま、わたしのことはコハルと呼んでください」

「わかりました、コハルさま」

「いろいろ質問があるの。まず、どのくらいの時間的な余裕があるのでしょうか」

「おそらく、一ヶ月はないかと」

「そんなに早く」


 エドワルディの言葉は事実かもしれない。

 というのも、一昨日まで暖かかった空気が、急激に冷えてきたのだ。秋から冬になる季節、日本では、ころころと天気が変わった。


 それが、すでにはじまっている。

 穏やかだった気候が荒れている。


 この時、わたしたちはまだ気づいていなかった。

 悪鬼は、すでにそこにいたのだ。



 (第1章完結:つづく)

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