フィヨルとの隙間と、王との関係
「カテリーナさま、マルキュスさま、執務室で王さまがお呼びです。いらしてください」
「他の二人は?」
「おふたりだけをお呼びです」
わたしたちを侍従が呼びに来たのは昼過ぎだった。
──フィヨルは? お姉さま、フィヨルは、なぜ呼ばれないの……?
「マルキュス、手伝ってもらったフィヨルに休む場所を提供して」
「かしこまりました」
「いや、僕もいっしょに行きます。お側でお守りします」
それは、なんていうか微妙だ。
ふたりとも同時に勘違いしている。
フィヨルの存在自体がカテリーナを脅かすのだ。カテリーナは猛禽王の妻だ。どこの世界に、妻の元カレを気持ちよく受け入れる男がいるだろう。
クリストフ猛禽王は愚かではないし、パートタイマーの夫でもない。
熾烈な王位争いを生き延びたのだから、策士でもあるはずだ。
溢れでるフィヨルの恋情を、気づかないはずがない。
困ったなと思ったとき、マルキュスが機転をきかせた。
「フィヨルさま。今は緊急事態です。あなたさまの存在を王がお認めになったのは、この事態だからでございます。カテリーナさまをお守りになりたいなら、どうぞ、このまま文書庫で調査を続けてください。侍従!」
「はい、家令さま」
「フィヨルさまに食事と風呂の用意を。その上で、仮眠部屋を用意せよ」
「かしこまりましてございます」
フィヨルはわたししか見ていない。
「カテリーナさま」という声が熱を帯びている。
まったくなんという美しく凶暴な目をしているのだろう。
青く透き通るような瞳は深い悲しみをたたえ、まっすぐにわたしを見つめてくる。
思わず目を逸らしてしまったのは、わたしがカテリーナではなく、不純な大人の女だからだ。
永棠コハルの人生に、これほど情熱的な視線で見つめてきた男はいない。だから、それは感動的でさえあるのだけれど。
──フィヨル。
(ここで呼ばないで、カテリーナ。ごめん、わたしは名前を呼ぶ気はない)
──お姉さま、わかっています。ただ、何も知らない彼が哀れで。
「フィヨル。王宮のなかで、わたしに危険はないわ。だから、待っていて」
「そうでしょうか。簡単にあなたを牢に入れたのに」
「あ、そっか。そこは忘れていた」
あっけらかんと言ったわたしに、フィヨルは美しい目をゆがめた。文書庫で采配を振るうわたしに違和感を抱いたのか、彼は、急にわたしの手首をつかみ、かすれた声で聞いた。
「あなたは、いったい誰なのですか?」
その手をマルキュスが乱暴にはたいた。
「フィヨルさま、お手をお離しください。王妃さまに無礼です」
「待った、待った、待ったぁ! フィヨルもマルキュスも待ったぁ。今は悪鬼が優先よ。そのほかのことは、すべて終わってからのこと。いいわね、ふたりとも」
「失礼いたしました」
すっとマルキュスが引き下がり、フィヨルが離れた。
これは、ややこしいことになりそうだ。しかし、まずは悪鬼襲来を生き延びての話だ。
いっそ、色恋沙汰でオロオロしたほうが、こんな緊急事態より、どれほど良かっただろうか。
「じゃ、フィヨル。休んで待っていて。マルキュス、行くわよ」
「お供します」
マルキュスが強引にフィヨルの間に入って歩きはじめた。
文書庫の扉を閉めるとき、振り返るとフィヨルは下唇をかみ、懸命に涙を堪えているような顔をしている。
ああ、もう、フィヨル、どうか泣かないで。
なんだか可愛すぎて、キュンキュンしてくる。
そんなふうに誰かに恥も外聞もなく夢中になる、その若さと純粋さが眩しい。
扉が閉じるまで、わたしはフィヨルを見つめていた。これで少しは慰められるといいと思う。
心のなかでもカテリーナがうるさかったが、とりあえず無視した。
この子を大人にする試練で、今回のことが、どう作用するのだろう。
誰も知らないわたしの秘密ミッション、カグヤを地獄転生から引き上げること。
この秘密を相談できれば楽なんだけど。言葉にすれば、強烈な痛みが心臓を襲うはずだ。
(カテリーナ、頑張って)
──わかっています、お姉さま。
思っていたより従順な態度で、逆に申し訳なくなった。
文書庫から中庭の通路に出ると、みぞれを降らした雨は止んでいた。しかし、まだドス黒い雲は残っている。いつ、大雨が降るかわからないような空模様だ。
「マルキュス、こんな雨は過去にあった?」
「はじめてです。風も冷たくなりましたね。これは間違いなく寒期の訪れでしょう」と、彼は声をひそませた。
すれ違う使用人たちも不安気な様子に見えた。
湿気の多い熱のこもった気候の南国に、急な冷え込みが襲い、みぞれが降ったのだ。
これだけで、不吉に感じるだろう。まして、子どもの頃から、寒くなると悪鬼が襲来すると聞かされてきた土地柄だ。
囁き声が通路先から聞こえてきた。
「カテリーナ妃をハーレムに迎え入れてから、不吉な現象ばかりが起きるわ」
「カテリーナ妃って……、悪魔かもしれない。きっとそうよ」
「不吉な妃よね」
彼女らの噂に罪はない。
この気候変動は呪いとしか思えないだろう。なにか正当な理由を見つけたくて、そこにカテリーナの存在はピースの欠片のように当てはまってしまう。
「どうか、お気になさらずに、カテリーナさま」
マルキュスが慰めてくれたが、しかし、彼も知らないのだ。
あながちその陰口が的外れでもないことを。その事情はわたしだけが知っている。
──中庭の花が萎れていますわ、お姉さま。
カテリーナの沈んだ声が聞こえた。
中庭に咲く赤や黄色の原色の花々は、強風やみぞれ雨に打たれた結果、しおれそうなほど茎を折っている。
「どこに向かうの? マルキュス」
「私的な王さまの執務室にございます」と、侍従が代わりに答えた。
(つづく)
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