【完結】わが神よ、カグヤの罪を赦したまえ

雨 杜和(あめ とわ)

第一部第1章

目を開けたら水中だった。




 さっぱり自分の状況が理解できなかった。

 気がついたときには全身に冷たい圧力を感じ、耳がボーンと痛んでいる。


 なに、これ?

 息を吸おうとして、口や鼻に大量の水が流れ込んできた。


(ブッハ!)


 まさか、水中にいるのだろうか……、身体に馴染みある圧がかかり耳鳴りまでする。

 なぜ?

 いや、ともかく、まずは何も考えず、耳抜きだ。

 あわてて鼻をつまみ息を止める。


 状況がわからず、もがいたし、恐怖からパニックも起こしそうだ。

 ここは、まちがいなく水中で。

 わたしは、お、溺れかけていて……。

 このままでは、死ぬ!


 しかし、なぜ、新宿駅のプラットフォームではなく、水中にいるのだろう?


 通勤電車はどこへ行った。いや、今そこじゃない。ここが新宿でも、駅のプラットフォームでもないことは間違いない。

 オフィスから帰宅途中でもないから……。

 いや、さっきまで確かにわたしは帰途についていたのだ。


 会社帰りで駅のプラットフォームに立っていた。


 い、息が苦しい。

 のんびり考えている場合じゃない。このままでは溺れる。


 小さい頃から実家近くの海で、くるくる体を回転させて自由自在に美しい人魚のように泳いでいたわたし。

 溺れるなんて恥しかない。


 冷静に、冷静に、先ほどまで新宿駅にいたなんて、この際、横に置いておこう。


 そう、すばやく的確な状況判断は社長秘書としての必須条件。今こそスーパー秘書検定一級の能力を発揮する場面だ。

 水中だけど、それも横に置いておこう。


 まずは、状況判断から……、上下左右と見渡した。

 まちがいなく水底にいる。

 長い髪が水に漂い、服が身体にまといついて、浮上するのを邪魔している。


 水面にあがろうと、必死に水を掻きあげ、上へ上へともがく。

 ところが、まったく上にいけない。


 水を含んだ服が重すぎるのだ。

 まるで石の重しを抱えて水底にいるみたいだ。


 いったい何を着ているの。

 こんなヒラヒラの足首までとどく重いドレスを着ているなんて……。

 最初に、このドレスを脱ぎ捨てなきゃ。

 ハイヒールを脱ぎ、上着を脱いだ。


 パニックさえ起こさなきゃ、やれる。大丈夫、わたしならやれる。


 ドレスは腰のあたりを絞り、スカートにボリュームがある華美なものだった。

 首のあたりから腰まで紐で縛っているが、しかし、かなり緩んでいたので脱ぐためには助かった。

 少しづつ空気を吐き出しながら、薄手の下着姿になる。身軽になって水をかき分けて上にあがった。


 やっと水面にあがれた。

 夜だった。

 まったく見覚えのない景色、どういうことだろう。


「……さまぁ〜〜」


 川岸の方から誰かを呼ぶ声が聞こえる。声はやっとこちらに届くくらいに小さい。ランタンの灯りだろうか、懐中電灯とは違う弱い光がいくつも見える。


「王妃さま〜〜」

「王妃の前に、まず、わたしを、助けて! お〜〜い、こっちよ、こっち。助けてぇ」


 少しも気づく様子がない。

 仕方ない、ここは嘘でもいい。


 臨機応変こそ社長秘書の必須能力。一分前に言われたことを覆されても、にっこりほほ笑み、「かしこまりました」と即答できるのが一流の証拠だ。

 けっして、「さっき言われたことと違う」などと反撥してはいけない。


「だ、誰か! ここ、ここよ! わたしこそ王妃よ! 王妃以外の何者でもない。王妃だぁ!」


 足で立ち泳ぎをしながら手をふり叫んだ。

 それでも、気づく者はいない。

 岸辺から見れば真っ暗闇の川面に、ポツンと浮かぶ人の頭を発見するのは至難の技だろう。

 夜で川風は岸から、こちら側に吹いている。向こうの声は小さく届くが、こちらの声は聞こえないようだ。


「王妃さまぁ、どちらにぃ……」

「ここだぁ!」


 ああ、誰も聞こえていない。

 自力脱出しか手はないようだ。わたしは右手を水面に入れ、河岸に向かってクロールで泳いだ。

 どれだけ水をかいても岸に近づかない。水の流れが岸から外に向かっており、それに巻き込まれて流されているために近づけないのだ。


 やっかいなことになった。


「〜王妃さまぁ」

「ここよ! 王妃はここよ」


 彼らは王妃とかいう女性を探しており、わたしを探しているわけじゃない。


「ええい、なんでよ。気づけ! 王妃だって言ってるでしょ。ヘェ〜ルプ!」


 役立たずな岸辺の人びとは、ただ、周囲をさがしているだけ。

 絶望的だと思いながら、空を身上げた。青白く美しい月がかかっている。


 美しい月だけど……、どこか見慣れない月でもある。


 そのとき、月に黒点のようなモノを発見した。それは徐々に大きくなって、月を隠すくらいになる。


 バサバサバサ……という翼音が聞こえた。

 超大型の鳥だ。

 それは、わたしの周囲を旋回していたが、ふいに翼をたたみ、こちらに向かって、いっきに下降してくる。


 かなり大きい、普通の人間よりも大きいかも。

 こんな巨大な鳥って、怪獣か?

 もしかしてエサを探している?

 違うから、わたしはエサじゃないから。

 ど、どうしよう。この上、鳥に食べられたくない!

 そんな死に方は無惨すぎる。


 永棠えいとうコハル三十三歳、新宿駅のプラットフォームで帰宅電車を待っていたら、溺れかけ、次に怪鳥に食べられる予定。


 わたしは水面を叩くように腕を動かして、必死にクロールで逃げた。


 息つぎのついでに窺うと、鳥は狙いを定めたように、どんどん近づいている。

 なんて速さ。普通の鳥じゃない。

 広げた羽は黒に金色の縁取りがあり天をおおうほどで、大柄な人間くらいの大きさがある。


 それにしても、なんて美しい鳥だろう……。

 孔雀、白鳥、ケツァール?

 美しい鳥を見たことはあるが、この鳥は、それのどれとも違う。神々しいだけでなく禍々まがまがしくもある。もしかするとルシファーの化身かもしれない。


 すぐ間近になったとき、ふたつの黒曜石のような目が見えた。

 顔が、人の顔に羽毛が生えている。

 額から生えているのは羽毛のような髪に見えた。


 鳥じゃない、人でもない、鳥人?


「ヒッ!」


 その大型の鳥は水面から掬い取るように、わたしを抱きあげて浮上した。


「あ、あの、お、美味しくないから。え、エサじゃない。わたしを食べると、下痢するわ。吐くわよ。わかる? ブゥー、ピィーって意味よ」


 長い翼が翻り水面スレスレに飛び、そのまま岸辺に向かっていく。


「もがくな」


 重みを感じる低く深い声がした。


「騒々しいと水に落とす」


 な、何者だろう。


 これは……。

 気を失ってもいい案件だ。そこは誰も否定しないだろう。


 もう、限界だ。

 タフで鳴らした社長秘書だって、この展開は常軌を逸している。


「あ、あんた、誰?」

「王妃よ。なんという言い草だ」


 何言ってるの、この鳥人間。つい目があってしまった。見るんじゃなかった、恐ろしほど暗く冷たい底なし沼のような瞳。


 ああ、だめだ……。

 もう無理!


 ここは、とりあえず気を失っておこう。後のことは後で考えよう。




(つづく)

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