人ならざる者 1
目覚めると……、奇妙に豪華な室内にいた。
川辺ではなく、まったく別の場所にいる。
いったい何が起きているのだ。
もしかして、夢を見ているのだろうか。
妄想の世界に入り込み、逃げ場がなくなって混乱しているのかも。それ、あんたの平常運転じゃない? なんていう、侘しいツッコミをされそうけど。
いや、違う。夢じゃない。断固、違う。周囲が変なのだ……、と思う……、きっと……。
今はヴァチカン美術館のような荘厳な部屋にいる。
天井が高く、十階くらいまでの吹き抜けで、壁の側面には延々とラセン階段が続いている。
ちょっとやり過ぎじゃないってくらい豪奢だ。
さらに奇妙なのは、重厚なデスクの向こう側に男がきわめて真面目な顔をしてすわっていることだ。
不思議と恐怖は感じなかった。
そもそも、会社帰りで新宿駅のプラットフォームにいたのだ。体感時間では、たぶん三十分前くらい。溺れて鳥につかまれて、そして、この場所にいる……、これで三十分。
プラットフォームで異様に眩しい光を浴び、その後、川で溺れかけ、鳥人間に助けられるという経験をしてみればわかると思う。
思考なんて追いつかなくなる。
意識が飛んでしまうというか。感情が麻痺するというか。
それでも、必死になんとか状況に合わせたいとは思った。
「なにかご質問は?」と、男が生真面目に聞いた。
「あなたはないの?」
「わたしが? わたしの方から質問すべきでしょうか。いや、不思議な方ですな。これまで、多くの人がこの部屋を通り過ぎました。ほとんどの人はパニックを起こすか、あるいは質問攻めをするか。ともかく、わたしに聞いた方ははじめてです」
「状況に合わせただけよ。でも、その状況が理解不能だから、とりあえず時間稼ぎの質問よ」
子どもの頃から、その場の空気に合わせるのは得意だ。社長秘書という職業柄から、人に合わせるスキルが格段に上達した。
なんなら、京都に行けば京都弁、九州に行けば九州弁とバイリンガルに対応して、地元民になりきれる。
しかし、ここでは、どう合わせていいのか。だから、質問はないかと聞いたのだ。
男は、しばらく値踏みするかのように黙ってから話しだした。
「最初に……、非常に申し訳ないことを、お伝えしなければなりません。まったくもって、これは手違い以外の何ものでもありませんでした。あなたが、あの場にいた。それが不運のはじまりです」
なにが、申し訳ない?
なにが、不運?
訳のわからない部屋で、奇妙な男と向きあい、わけのわからない理由で手違いだと聞かされている。
わたしは至極まっとうな性格だって自分では思いたいが、しかし、周囲からは、『ぶっとんでいる』と笑われる。
だから、迷っている。
ここは、怒るべき状況なのか?
「この状況が手違いだと言いたいの」
「ご明察にございます。実は、あなたではなかったのです、
何も答えないでいると、男はかってに話しはじめた。
本郷幸子は名前から想像した年配の女性ではなく、まだ十八歳の女子高校生だという。
「本郷幸子は非常に不幸な子です。飲んだくれの父と自由奔放な母のもとに生まれ、すぐに母親はシングルマザーに、その後、母の内縁の男からは暴力を振るわれ、育児放棄されて育ちました。中学生の頃には、生活費のため年齢をいつわりバイトをするなど、苦労に苦労を重ねて高校受験、なんとか酷い境遇から這いあがろうとして、さらなる悪夢が、同級生による酷いイジメがはじまったのです……」
見事というしかないほど不幸のてんこ盛り。本郷幸子は同情すべき生い立ちの高校生のようだった。
「では、わたしがここにいることが、手違いってどういうことなの?」
「本郷幸子は新宿駅のプラットフォームから身を投げ自殺しました。ひどい人生から逃げてしまったのです。本来、あらゆる不幸にもかかわらず健気に生き延びることが必要でした」
「本郷幸子に同情するわ」
「仕方がないのです。これは彼女の罰ですから。彼女の本名は
「……」
「天界の掟に背き大罪を犯した罪人にございます」
男は、さも理解できるだろうとでもいうように、ここで言葉を切った。何も答えないでいると、さらにつづけた。
「カグヤさまは、下界に落ち、不幸を耐えることで罪を贖う予定でした。しかし、自殺という方法で、自分の人生を投げ出してしまった。それゆえに別の不幸な人生に転生しました。そこで再び逃げて、次も逃げられた。百年、千年、数千年、カグヤさまの無限転生が続いております」
今回、川に身を投げたのが天神カグヤというわけなのか。
「ご明察です」
「今、聞こえたの? 言葉にしてないわよ、わたし」
「聞こえました」
「カグヤさまはブローズグフレイ王国のカテリーナ王妃として生きるはずだったのですが。早々に自殺されて、ますます、お気持ちをこじらせておいでです」
「いやな予感しかしないのは、なぜかしら?」
「そんな八方塞がりの状況のなか、手違いで、あなたさまが同じ身体に転移なさいまして、はからずも自殺から救われた。たまたま、傾きかけた家具屋店のご令嬢として育ち、たまたま西洋家具輸入の貿易会社カグヤ商事にコネ入社なさったあなたさまに、川に身を投げた瞬間のカグヤさまがシンクロしたのです」
カグヤと家具屋で間違えたって。愚かしいほどの信じがたいミスだけど、それが事実というなら、ここは受け入れよう。
状況に合わせることは得意だ。
「わかったわ。文句は言わない。クレームもつけない。面白い経験だと思うことにする。いきなり川で溺れそうになり、奇妙な部屋で説明を受けたことも、なにもかも。これでも聞き分けはいいほうよ。だから、さっさと通勤帰りのプラットフォームに返しなさい」
「そこなんです。問題は、お戻りになることができないのです」
「へ?」
聞き間違いだろうって、自分でも間抜けな返事をした。
「誠に申し訳ないのですが、あなたさまにはブローズグフレイ王国の王妃として人生を全うしていただきたいのです。多少なりとも、色はつけますから」
「色って?」
「その能力的なことにございます。言葉に不自由しないとか、文字も読めて、その上、スペシャルギフトを加味することも可能でございます」
なに言っているんだ、この男。
怒りを爆発させようとしたとき、男の顔がはっきりした。
ロマンスグレーの髪をきっちりと七三に分けたイケオジだったが、それゆえにチャラくも見える。そんな男が上目遣いをしている。
完璧に苦手なタイプだ。
と、急に室内がぐるぐる回転して、気がついたら真っ暗な場所にいた。
(つづく)
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