第三部第1章

氷河期の予兆




 窓から入る風に身をゆだね、ベッドで仰向けに倒れていた。いつもに比べても吹いてくる風に熱気が少なく穏やかだ。

 空気が和らいでいる。

 このダラダラする感覚。わたしの休日は、いつもこんなふうにベッドでごろごろしていたものだ。


 あの頃、窓の向こうから入る風は、春は穏やかに、夏は熱気をもち、秋は風に冷気がまじり、冬は凍るようだった……。


 季節ごとに変化があった。


 おそらく、この地は一年中、花の匂いが混じったむせるような風が吹いているのだろう。


 川で溺れ、結婚後の式典に参加し、オーブリーの刃物事件からの牢獄、ダグマ妃との会合。

 どの一瞬を切り取っても気が休まる時がなく、思った以上に疲れていた。


 マルキュスに誰も取りつがないようにと頼み、ほぼ一昼夜、寝て暮らしたと思う。

 こんな穏やかな日は嬉しくなる。

 穏やかな陽気は、人をうっとりとさせる効果があるようだ。


 ──お姉さま、そろそろ動きましょう。


(もう少し、この癒しに浸っていたいのよ)


 ──この国から逃げるのに、時間がありません。フィヨルが待つのにも限界がありますもの。


 そうだった。フィヨルと逃亡すると約束したのだ。カテリーナが自分の意思を持つことは、悪いことじゃないけれど。


(この国に流れ着くまで、帆船での厳しい旅をしてきたのでしょう? 食料とかどうしていたの?)


 ──帆船での旅は三ヶ月ほどでした。大型船での航海には、まだ耐えられたのですが、嵐や日照りで小型船に乗る民の多くが亡くなりました。


 どこか他人事のような言い方だが、それほど厳しい航海を経てきたのならば、放浪生活も可能かもしれない。

 しかし、オーランザンド民にとって、カテリーナの逃亡は、どう考えてもいいことはない。


(大型船で運ばれたのは、民の力があってこそじゃないの。その民を捨てて、逃げることができるの)


 ──そのことを……、考えると辛いのです。お姉さまはイジワルです……、もしかしたら、逃亡することなど考えていないのですね。


(あなたはどう? 逃げたいの)


 ──はじめから無理なことは理解していました。でも、夢を、ささやかでも夢をもっていたいのです。


 かわいそうな子だ。

 この子は自分の人生が罰であることを知らない。弱い性格ゆえに大罪を犯したと聞いたが、いったい、天で何をしでかしたのだろうか。


(今日は身体を休めて、明日のことは明日、また考えよう)


 いつもの自堕落なわたしが戻った。カテリーナは、素直にハイと答える。気が弱すぎて繊細で、性格をこじらせているが、実際は素直でいい子なのだ。

 かわいそうな子を騙している気分になって、自分のほうが悪党だと思ってしまう。


 ま、いい。

 今は何も考えず、気怠い空気に身を任せていよう。午後になれば、また暑くなる。そう思ったが、朝の心地よい風はそのまま、昼になっても暑くはならなかった。


 南国であるこの地に、季節があるのだろうか。

 空気が急激に冷えていくのを肌で感じた。


 これは、異常ではないだろうか。南国で空気が冷たいなんてことがあるのだろうか。


 




 何時頃だろうか、午後の遅い時間だった。


 扉が激しく叩かれ、返事をする前にマルキュスが飛び込んできた。冷静沈着なマルキュスが足早に入ってきた様子は、どう贔屓ひいき目で見ても無礼だった。

 

 不安そうに額に汗まで滲ませ、さらに衣服も乱れている。


「コハルさま!」

「どうしたの、マルキュス? 何をあわてているの」

「お荷物をおまとめになってください。避難いたします」

「どういうこと。先日まで、パーティ三昧の祝宴だったのに」

「何もお聞きにならず、どうか従ってください……」


 静かで平和な午後の時間にそぐわない言葉だ。前にマルキュスが興奮して入ってきたときはオーブリーの刺殺事件だった。

 他に、王の妃でわたしを害する人などいないはずだ。


「マルキュス、悪い冗談なの?」

「コハルさまは、この地に来られてまだ日が浅いですが。ここは南国で暖かい地なのです。しかし、午後から寒いと感じませんか。これは本当に極秘情報ですが、上位の大臣方以外に、まだ誰も知らされていませんが……。北の海に氷が現れました。悪鬼がくる兆候です」


 日頃冷静なマルキュスとは思えない慌てぶりであり、何か悪いことが起きるのだろうか。

 北の海に流氷?

 マルキュスは動揺するあまり、不自然に腕を上下させている。


「王は? 猛禽王はどうしたの」

「王の行方が知れず……、こんな時に。新月ですから、ハーレムから離れているのです」

「問題を要約するわよ。今日は新月だから王は不在で、たしかに肌寒くなったけど、それで、この国に悪鬼とかいうのが来るのね」

「そうでございます。ですから、急いで逃げるのです」

「それから?」


 それにしても悪鬼ってなに?


「その悪鬼ってのは、いつも襲ってくるの?」

「いえ、いえ、この地に冬が来る時だけです。二百年前に」


 そう言われた瞬間、わたしは吹き出してしまった。


「マルキュス、まさか二百年前のことで、慌てているの?」

「さようにございます。その時は、この大地に住む人びとが、ほぼ全滅いたしました。多くの犠牲を払いました。ああ、恐ろしいことに。わたしの子どものころ、悪鬼に食べられると親に言われると悪いことができませんでした」


 何かがあるのだろう。それは、この気候と関係しているのか。午後から、急に冷えてきた。

 南国に秋があるのなら、まさに、今日は秋の天候だ。


「王はどこに行ったの」

「新月ですから。誰にも行方を知らせずに出かけるのです」

「わたしを王の執務室に連れていきなさい」

「そ、それは」

「情報をつかんだ理由を知りたいの」

「先ほど、北の守護者から伝令が来ました。その情報です。海が凍りはじめていると」


 日頃、冷静なマルキュスが完全に正気を失っているようだ。よほど、その悪鬼の襲撃は予想外であり恐怖なのだろう。


(カテリーナ、悪鬼のこと聞いたことがある)


 ──それは、古い伝説でしたら。遠い大陸、遠い国が悪鬼の襲来で滅びたという伝説を聞いたことがありますけど。物語の話で事実だとは知りませんでした。でも、あの伝説が本当でしたら……。お姉さま、それはとても恐ろしいことです。


(昔の場所ではなかったの?)


 ──ここは魔界との狭間の国で、この地に結界があるのは、悪鬼が外に出ないようを抑えるためと聞いたことがあります。わたしたちは知らずに迷い込んでしまいました。結界は入る者を拒みません、ただ、出られないのです。


(じゃあ、なぜ、悪鬼の住む場所に結界をはらないの)


 ──この地が追放の土地だからです。鳥人族、エルフ族、ドアーフ族の国で、人びとから恐れられる者と、それから罪人や、わたしたちのような浮浪の民が住む地だからです。


 このすべて、悪鬼襲来を含め、カグヤの罰人生が理由かもしれない。

 もともとこういう場所だからこそ、カテリーナは流れついたのか。あるいは、カテリーナがいるから悪鬼が襲ってきたのか。

 卵が先かニワトリが先かなんて、考えている場合じゃない。


 この試練に打ち勝ってこそ、わたしは天神のクエストをクリアできるのだろう。


(カテリーナ。怯えないで、立ち向かうのよ)


 ──で、でも、でも、お姉さま、マルキュスが逃げろと言っています。


 そういう訳にはいかないのだ。この転生人生で最も大事なことは、カテリーナが大いなる試練に立ち向かう強さを持つことであって、尻尾を巻いて逃げることじゃない。それでは罰転生の繰り返しになるだけだ。

 わたしの予想だが、転生するたびに、人生は過酷なものになっているように感じる。


「王の執務室よ、マルキュス。まず、詳しいことを教えて」

「は、はい」


 ──お、お姉さま、だ、大丈夫でしょうか。あの後、フィヨルはどうしているのでしょうか。


(カテリーナ、この状況ではフィヨルを心配するより、わたしたちの状況を心配すべきよ)




(つづく)

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