最終話:煉獄の王
一昼夜、王は勝利宣言をせず、警戒を解かなかった。
お祭り騒ぎになって、再びネズミが襲ってきたら、民の落胆が大きいと危ぶんだのだ。
七日目の朝。
ついに王は勝利宣言を下し、民衆は大いにわきあがった。
黒ネズミは城壁まで到達できず、第五の穴で焼き尽くされた。そう、危機は終わった。
……そのはずだった。
誰もが心安らかに眠る夜を迎え、疲れを癒そうとした深夜、わたしは異様な気配で目が覚めた。
──お姉さま、起きて!
(カテリーナ、あなたも感じる?)
──何かいます。
ヒィー、ヒィーという不気味な呼吸音が聞こえる。
暖を取るために置いた火鉢の灯りに、うっすらと浮かぶ人影。
「誰なの?」
黒い影は、ゆらゆらと不自然に揺れている。
「……おまえのせい。おまえのせいで、王さまに……、クリストフ、なぜ、なぜ、なぜ、ああ……こんな女さえいなければ」
狂気を秘めた声色はオーブリーのものだ。王に執着しすぎた妃。
七日前に、彼女の姿はハーレムから消えていた。おそらく王の手配だろう。この凄惨な戦いに勝利するまで、そんなことに拘っている場合ではなく、わたしはオーブリーの存在を完全に忘れていた。
彼女がこの部屋に忍び込めた理由を聞かれれば、いくつでもあげられる。
ネズミの侵入に警戒して外部は万全の警備体制を敷いている。それゆえに個々の部屋は警備が薄くなった。
問題は忍び込んだ理由だ。
「オーブリーね。もう、眠る時間なのよ」
彼女を刺激をしないよう、穏やかな声で話した。しかし、その配慮は無駄だと悟った。
狂気を秘め、憎々しげに顔を歪め、襲いかかろうとする姿が闇に白く浮かぶ。
「ふふふ……、おまえなんかに王は渡さない。ヒィーー、ヒィ、ヒィ、クリストフはわたしのもの。わたしのものなのよ!」
派手な模様の服がヒラヒラと揺れ、近づいてくる。
すぐに逃げなきゃと思った。そうは思ったが、身体が動かなかった。カテリーナとわたしは同時に危険を察知して、左右別方向に逃げようとした結果、その場に棒立ちしてしまった。
次の瞬間、胸にドンッという強い衝撃を受けた。
オーブリーの短刀が胸部を引き裂き、それだけでは飽き足らなかったのか、短刀を引き抜いた。抜いた箇所から吹き出した血が円形を描き、宙を舞う。再び刺され、グリグリと皮膚の内部を乱暴にかき回された。
「あっ!」
強烈な痛みを感じて、彼女を突き飛ばすと、オーブリーは無様に尻餅をついてヘラヘラと泣いているような笑っているような声を上げた。
「ヒィーー。ヒィ、ヒィ」
月明かりで、夜着に血が広がるのを目にした。
身体から力が抜け、すうっと背後に倒れていく。白い夜着が床を滑るように広がった。そのカテリーナの美しい姿を、なぜか、わたしは空中から見下ろしていた。
夜着の胸の辺りに赤い花が咲いたように広がる。
「あはははっ、はは。おまえなんか、おまえなんか」
「何をしている!」
耳にこもるような声が聞こえた。王だ。
「ああ、クリストフ。やっとわたくしのところに来てくれた。ずっと、ずっと待って、えっ?」
声が終わる途中で、オーブリーは王の剣で切り捨てられ、その場にぎくしゃくと倒れた。王がわたしの身体を抱き寄せる。
「コハル! コハル……。誰か、医官を呼べ!」
王の悲痛な叫び声を、わたしは上から見ていた。
憐れで孤独なクリストフ。あなたには幸せになって欲しいと思う。誰よりも、その価値がある人なのだ。だから、わたしのために泣かないで欲しい。
『憐れなるかな、煉獄の王よ』
この声は、誰のものだろう?
どこかで聞いた覚えがある……。
恒星が爆発したような、激しくまばゆい光が見える。
音はない。
ただ、星が消え、白光になる崇高な輝き。
黒いロングコートを着た背の高いモノが、優雅に光のなかで舞っている。
いったい、わたしの身に何が起きてるのだろう?
今も驚いているが、まだ驚き足りないとでもいうのだろうか。
(カテリーナ、いる? カテリーナ)
返事がない。
わたしは、ひとりのようだ。
わたしは誰かに追われるように草原を走っていた。
これは遥か遠い記憶だ。その上、わたしのものでさえない。
何か恐ろしいものから、ひたすら走って逃げている。
カグヤはひとりじゃない。
激しい息遣いが背後から聞こえる。誰かが、いっしょに逃げているのだ。カグヤは誰かの手を引いている。
「はあ、はあ、はあ……、カグヤさま」
手を引く男の両目は白く濁り光がない。若い男は目が見えないようだ。カグヤの手に導かれ、顎をあげ転びそうな姿でついてくる。
息が荒かった。
フィヨルだ。これはフィヨルだ。
純粋で、素直で、盲目な愛でカテリーナしか見えていないフィヨル。彼にそっくりな青年だが、目の色が違った。
わたしの知っているフィヨルの目はカテリーナと同じで、透き通るような美しい青色だった。
青年の髪は乱れ、服は薄汚れ、血のついた足ははだしだ。
彼がつまづくと、それに身体を取られ、カグヤも転んだ。
ふたりとも、長く逃げていたのか。服はボロボロで、顔も身体も血と泥で汚れている。
まばゆい光がせまってくる。
ふたりは見つめあった。見えない目で、青年はカグヤを見つめている。
「どうか僕だけを見てください、カグヤさま。僕を見て、他の何も見なくていい。ただ、僕を見ていて」
強がりながら、青年は震えていた。
迫る光のなかで、黒いコートのモノが舞いながら、カグヤたちを探して、そして、発見した。
『見つけた』
カグヤの心に絶望が広がる。
若い男は村の青年。毒で目をつぶされた天神カグヤへの生贄だった。天神に捧げられ、七日の間、食事も与えられなかった聖なる供物だった。
男は純真だった。
七日の間、カグヤは彼を観察した。
七日の間、カグヤは憐れみを感じた。
七日目の朝、無知な村人は生贄として捧げた彼を殺そうとした。
カグヤは怒りのあまり、その場にいた村人全員を殺戮した。
『罪深いカグヤ。掟に背いて、人の世に干渉してしまった』
膝をついたまま、カグヤは口もとを歪めて笑った。
これがカグヤの罪だったというのか。
わたしは光に向かって声を荒げた。
「ちょっと待った!」
『永棠コハル、あなたには感謝を述べよう。カグヤが殺した村人の数倍の人びとを救った。天神の掟により、カグヤは許された』
「じゃあ、わたしはどうなるの」
その返事はなかった。
(エピローグにつづく)
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