高所恐怖症なのに
一段と冷え込みが強くなった早朝。
マルキュスが部屋まで迎えに来た。輿というか板切れに乗って北の海岸に行くために、迎えに来たのだ。
いったい、何を考えている。たとえカグヤの転生阻止のためだって、これは無理! 王の偵察に加わるつもりはまったくない。
ここは出鼻を挫いて先手必勝だ。
「マルキュス、早いのね……、ああ、でも、とても怠いわ、身体が怠くて」
「お迎えに参りました」
「そう、どうも熱っぽいの。いえ、すごく熱があって、風邪を引いたのかも。いえ、引いたわ。ひどい頭痛で、頭が痛くて割れそうよ。身体中が悲鳴をあげてるわ」
「コハルさま、ご安心ください。おそらく、そうなられるだろうと思い、万能薬をご用意しましたから」
マルキュス、こういうときは無能であってほしい。
有能な部下ってのは、時と場合によって非常に困る。予想はしていたが、手強い、なかなかに手強い。
「では、早々にお着替えをしてください」
「いえ、あのね」
「侍女たち、コハルさまの着替えを手伝いなさい。王さまをお待たせしてはいけません。毛皮のマントも用意してきました。あちらは、ここより更に冷えるでしょう。万全の態勢で北の悪鬼島へ」
「なんなの、その北の悪鬼島って」
「北の大陸は、通称で、そう呼ばれています。さあ、急いで」
マルキュスの号令に侍女たちが張り切った。
いろいろ抗議したが、マルキュスは例の眉を上げるだけという省エネモードで、無視している。
有能な家令である彼は、わたしを偵察隊の待つ王宮の北口まで送りつけるのに、それほど時間を要しなかった。
さすがだ。
いや、褒めてる場合じゃない。
「来たか。遅いぞ」
「わたしのせいです。頭痛がして、身体もあちこちが痛くて。今日は遠慮するしかない状態なんです」
城壁際に整列した偵察隊は二十名ほどだろうか。
精悍な顔つきで、一寸の乱れもせずに整列している。おそらく王の親衛隊で精鋭部隊だろう。
彼らの中心に、いかにも墜落しそうな不安定な
あんなものに乗れるわけがない。
(カテリーナ。あ、あの、あの不安定そうな輿とか言ってるけど、単なる板じゃない。あれに、あれに、この王宮まで乗ってきたの?)
──そうです。お姉さま、事情は別にして、あれだけは楽しかったです。今朝は寒いから、前ほど気持ちよくはなさそうですけど。
(寒いって、そもそも答えが問題の本質からズレているわ)
──牢獄で踊られた豪快なお姉さまなら、こんなの、大した事はありません。
(大した事があるから、慌てているんじゃない)
わたしの高所恐怖症を、誰も聞き入れそうにない。こと他人の苦手を軽く考えるのは、人類の大いなる悪癖だと思う。
「では出発する。妃はそれに乗れ」
クリストフ王はニッと笑い、右頬にエクボをつくった。その魅力的な笑顔でさえ、今朝は悪魔のようだ。
「いえ、申し訳ございません。すべて、わたしが悪かったのですけど。なにか誤解があったようで。そこ、あの、ここで、皆さまのご無事を祈って、聖なる舞でお見送りいたします」
「行くぞ」
一歩も引く気配はないようだ。王の命令を拒否する人などいないだろう。
ええい、飛ぶのか、恥をかくのかって二択なら、結論は一つだ。
わたしは大股を開いた。
両手を叩きながら、頭を振った。必死のオタ芸。声をかぎりにがなった。
「はあああああ〜、ヤレン、ソーランソーラン」
「エスコラ。王妃を
「承りました」
大柄な男が近づいてきた。彼はその場にひざまずくと、「結婚式前に、オーランザンドにお迎えに行って以来ですな。カテリーナさま」
(誰よ、このいかつい男は)
──確か、エスコラ・ファーンヴィストって名前の騎士団長です、お姉さま。結婚式まえに、オーランザンド王国まで、わたしを迎えに来た方です。
「エスコラとか。無事に戻ってきなさい。おまえの為に祈りの踊りを舞っています。はああ〜〜」
エスコラが吹き出しそうな顔をしている。
「また、ご一緒できますこと、光栄です」
「いや、そこは、光栄じゃない」
「王命ですから、ご無礼をお許しください」
返事をする前に、エスコラに横抱きされていた。
カテリーナの身体は細く華奢だ。大男に抱かれると、まるで巨人に襲われた幼児のように抵抗などまったくできない。
「マルキュス、わたしを助けて」
「いってらしゃいませ、コハルさま。ご無事をお祈りしております」
「あんたは行かないの」
「飛べませんので」
「この裏切り者!」
輿に乗ると、まるでわたしが逃げ出すのを防ぐかのように、すぐ空中に浮かんだ。左右二人づつ四人の兵士が輿をささえている。
結果、不本意にも高い場所にいる上に、恥もかいてしまった。
あの場にフィヨルがいなくてよかった。
踊る滑稽な姿を彼に見られたら、きっとカテリーナは、生涯、わたしを許さなかったろう。
(カテリーナ、かわって、吐きそう)
カテリーナの奥に引っ込んで、空を飛ぶ感覚を受け流そうとした。ここは地上だと自分に念じた。
──お姉さま、快適ですよ。風が冷たいですけど、でも、今日は雨が降っていませんから。あっ!
(どうしたの? 落ちるの? 大丈夫? カテリーナ)
──あれは、物見の塔ですね。北の先端までって案外と近いわ。もうすぐ海岸です。見てください。
(なんだか、日頃の鬱憤を、ここで晴らされている気がする。空の上から海岸線なんて、誰が見たいものか)
──地上に降りますよ。かわりましょう。
(それ、一番、怖いところだから。待って、もう少し待って)
輿が地上に降りると、隣に羽をたたんだ王が降りてきた。
「カテリーナ、大したことはなかっただろう」
返事をする気もない。
足腰に力が入らないし、身体って案外と精神と結びついているのだろう。カテリーナなら、簡単に起き上がれたろうが、わたしは、無様にすわったままで立ち上がることができなかった。
エスコラが駆け寄ろうとしたが、王が制した。彼は横に来ると、ひょいっとわたしを抱きかかえ、地面に下ろす。
冷たい風が頬をなぶり、髪を乱した。
ここはすでに極寒の地のようだ。吐く息が白く濁り、鼻の内部が凍るように感じる。
なんという寒さだろう。
毛皮を着込んできたが、それでも凍える。
「大丈夫でしたか? コハル」
エドワルディも、いつの間にか横にいた。
「なんとか、エド」
「ご覧になれますか。海の向こう側が北の大陸、悪鬼島です」
「……ここは海の音がちがうわね、波の音がしない。変わりに軋むような音が聞こえる」
波打ち際では、ドオゥドゥ、ギューギューという、氷同士が攻めぎあうような音が聞こえた。ものが破壊されるような、不安定で恐ろしげな音だ。
空も黒い雲におおわれ、いつ、大雨が降ってもおかしくない。大いなる自然に対して、人は非力で孤独な存在だ。
あまりにも寂しく厳しい景色に、自分ひとりでこの地に立っている気がする。
「恐ろしい風景ね」
「おまえの提言は、マルキュスから聞いている。よく考えたな。だが、これからは……」
珍しく猛禽王が言葉に詰まった。
見上げると横顔が厳しく、その目に苦悩の色があった。おそらく、彼も同じ孤独を感じているのだろう……。
(つづく)
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