王妃としての矜持




「ハラヌ」と、ダグマは秘書を呼んだ。

「椅子を持ってきて、カテリーナ妃を休ませなさい」

「かしこまりました」


 ハラヌの指示で侍女のひとりが、椅子をデスクの前に置いた。


「どうぞ、おかけくださいませ、カテリーナさま」


 ダグマは、チラリとわたしの様子を伺い、すぐにアバカスの玉を動かして計算に戻った。


 アバカスはソロバンとちがい、十個の玉が細い針金状のもので繋がっている。その玉を動かして計算するようだ。


 玉を動かすダグマの五指は、まるでピアニストの動きのように洗練されて華麗だ。

 彼女は王族でもあり、このハーレムで最も身分が高い。その女がキャリアウーマンのようだ。


 しばらく、玉を動かす音だけが室内に響いた。


「ハラヌ、問題はない。問題はその内容ではあるな。処理しておきなさい」


 ハラヌも慣れているのだろう。羊皮紙を受け取ると、頭を下げて退いた。ダグマが顔をあげた。


「待たせたな」

「いえ」


 ダグマの全身は見えないが、それでも骨太で背の高い女だと知れた。

 小柄なカテリーナよりも頭ひとつほど座高がたかい。


 目を引く容姿だが、美人ではない。

 美人ではないが、自信にあふれた態度は魅力的だ。猛禽王と同じ黒髪を持ち、肌は浅黒く、目鼻立ちがはっきりした濃い顔つきである。


 金髪碧眼で小柄な妖精のような容貌のカテリーナと比べると、同じ女といっても種族が違うようだ。威圧感があり、迫力もある。


 だからか、心の奥でカテリーナがすっかり萎縮してしまった。

 こういう女性こそ、仲良くなれば世話をしてくれるのに、そういう見極めもできないようだ。


「待たせたな」


 彼女は大きな声でいうと、まっすぐに、しかし、傲慢ではないが、ほんの微かな優しさもなく、こちらを見つめた。

 わたしの全身を裏返して奥底まで見透かすような恐ろしい視線だ。


 ──お、お姉さま、こわい。


 彼女には猛禽王の面影があった……。

 顔は似ていないが、人を見透かすような視線と、自信にあふれた態度からだろうか。

 彼女は黙ったまま、するどい視線を浴びせてきた。

 長い時間、ずっと、長い時間……。


 まったく引かない。


 引くつもりもない。


 ところが、驚いたことにダグマのほうが降りて、ニッという笑顔を見せた。王と同じで人を惹きつける。


「おやおや、聞いていた性格とも、姿形から想像できる性格とも、だいぶ違うようだ。その天使みたい顔で、案外とずぶとい。性格的にはわたしと似て、感情より損得で動きそうな、そんな顔つきをしている」

「そのおっしゃり方は、ご自分とまとめて、わたしを貶める高等戦術でしょうか。わたしを落としながら、自分もということで嫌味を和らげてらっしゃる」

「ずけずけと言うな。面白い」


 彼女は視線を外さない。

 わたしも無理して見つめる。

 いや、これは、かなり無理する必要があって、少し視線を上にずらして、額あたりを見つめた。


「そうか、なるほどな。オーブリーが躍起になった理由がわかってきた。その透き通るような青い瞳は吸い込まれそうなほど魅力的だ……、おもわず見つめてしまう。その外見に騙されると痛い目にあいそうだ」


 これは……、とぼける場面だろうか。長年の社長秘書キャリアでも対応が難しい。

 カテリーナの容姿にあわせた従順な女として演技するつもりもあったが、すぐ諦めたのは、それをすると逆に落胆させそうだったからだ。

 なぜか、彼女に落胆されたくなかった。


「わたしの噂のことでしょうか。あんな根も葉もない噂を信じてらっしゃらないでしょうね」

「すぐ調子にのらないことだ」


 しっぺ返しのように、パシリと言われて唇をかんだ。これは気を引き締めないと、彼女のオーラに吸い込まれてしまう。


「牢獄に入り、その後、王の部屋で過ごしたようだな」

「はい」

「それでも、まだ、まぐわってないのか?」

「え? あ、あの……」


 まぐわうって、そういう意味だろう。


 ベッドでをするって意味にちがいないけど、自慢じゃないが、そこは経験不足なのだ。まっすぐに事務的な目で問われると戸惑う。


 かつて社長室のお局さまと呼ばれた、わたし永棠コハル。

 この程度でうろたえるなんて、自分でも新鮮に思うが。しかし、やりこめられるのも面白くない。

 完全に先手を取られている。

 まったく、これは、面白くない。


 ──お姉さま。だ、大丈夫ですか?


 おずおずしたカテリーナの声が聞こえる。


(ありがとう、ちょっと冷静になるわ。今は黙ってて。こいつは、あなたが対応するには無理がありそう)


「あの王は強烈なフェロモンを発散させるのは、会えばわかったであろう。女を狂わせる男だから、まだ手をつけてないとは、いや、手をつけて欲しいと思わなかったとは珍しいことよ。異種族ゆえに、あの色情フェロモンから安全な可能性もあるが。たぶん、ちがっておろう」

「いいえ、あの、かなり魅力的で、あやうくよろめきそうでした」


 ダグマはおおらかに笑った。


「そうか。普通の女なのだね」

「普通も普通です。いい男、ぜんぶ自分のトリコにしたいという欲望はあります」

「王もか」

「近づきすぎると、こちらが火傷しそうですが、興味はあります」

「その程度か。それでは、まだ知らないのだろう。本来の王の姿を」


 そう言うダグマの視線が奇妙に光った。何かを隠しているようにも思えた。


「知る必要があることでしたら、教えてください」

「教えても良いが、それでわたしに何の得がある」

「人に優しくするという満足感で気持ちがよくなります」


 ダグマが吹き出した。


「おもしろい女だ。わかった、教えてやろう。禽獣である王は発情期を迎えると強烈な色気フェロモンを分泌させるのだ。毎月新月にな。王が望んでいるわけではないがの。王の周囲の女たちが、ときに男でさえも、その目に見えないフェロモンに惹きつけられ、それこそ心臓に楔をうたれたような衝撃を受けるのだ。ハラヌ」

「はい」

「次の新月はいつだ」

「今週末になりますかと」

「そうか、王に溺れたくなければ、その日は王から逃げるのだな」

「あなたもですか?」


 彼女はにやりと笑った。


 

(つづく)

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