七、豚カツで美的センスの鍛錬 一

 食事が終わってから、早速スマホでメールを書き始めた。検見さん本人の意向を確かめないといけない。とはいえ、過剰な期待を抱かせてはならない。あくまでもこちらにも見返りのあるビジネスとしての一面もある。礼儀を欠かないように文面には気を遣った。


 正が洗い物をしている間に、手早く内容をまとめて推敲して送信すると返信はすぐにきた。できることならなんでもするので、よろしくお願いしますとのこと。


「明日から忙しくなるね」


 あと片づけの終わった正に、赤ワインをワイングラスについで渡した。ビーフシチューに使ったあとの残りだ。


「ありがとう。じゃあ、澪も」


 正が食卓に戻りながら瓶を手にして、私のワイングラスを八割ほど満たした。


 改めて乾杯するのも面倒なので、小さくグラスを掲げ合うだけにした。


 口につけてついとグラスを傾けると、日常と非日常の混ざった味が喉を流れた。お洒落な外食で選んで飲むワインが素敵なのは当然として、家で消費する安物にもそれなりの値打ちがある。それはそれとして、ビーフシチューでお金をちょっとたくさん使ったのでつまみもデザートもなし。


「もうかったら社員に還元してくれよ」


 上機嫌で正は軽口を叩いた。


「もちろん」


 私の本心だった。


「俺もなんか作ろうかな。図画工作、五段階評価で二しか取ったことないけどさ」

「きっと教えがいがあると思うよ」


 皮肉とも冗談ともつかない口調で応じると、正は黙って笑った。


 翌日。


 二人一緒に出勤した私は、久しぶりに始業から仕事にかかった。オンライン陶芸教室の試算が終わるまでに、宇土の敷いていたレールを私流に修正しないといけない。一朝一夕で終わるはずがなく、その間にも日々の業務が入る。


 お昼は一人で手近なそば屋さんにいってすませ、午後からまたバリバリ働いた。正の試算は定時直前に上がった。


「お先に失礼します」


 井部が真っ先に退社した。お疲れ様と声をかけ、それならまた考える。正はまだ動く気配がない。私にはばかっているのだろう。細かい質問があれば動けるようにしているのかもしれない。


「先に帰っていて。少ししたら私も……」


 どうせ今日は正が料理当番だし、ちょっと続けるくらいならと決めたそのとき。


「いい加減ウゼェんだよゴミ親父! エロ動画の編集でもやってろ!」


 窓ガラス越しなので、さすがに小さくはあった。井部があんなに酷い悪態をつくなんて、初めて聞いた。思わず机を離れて窓際へ駆け寄ると、だれかに井部がまとわりつかれていた。髪を伸ばして紺色のダウンジャケットを身につけている。性別まではわからない。 


 頭上から見下ろす格好になっているので、二人の表情までは見えなかった。


 正は物もいわずに職場をでた。少し遅れて私も続いた。


「一言、ね。一言だけでいいんですよ。声も変えますし匿名ですから」

「警察呼ぶぞ!」


 押し問答を井部と続けていたのが、いつぞや正が家で話した江原とかいうチンピラジャーナリストなのは一目で察した。くたくたの黒いデニムといい安物のスニーカーといい、なるほどゴシップネタの写真を一枚いくらで売りつけにきそうな姿形だ。昭和かよ。


「弊社の社員になにか御用ですか」


 思い切り冷ややかに私は聞いた。


「あんた、ここの偉い手さん?」


 無礼千万な問い方は無視に限る。


「井部さん、あなたは帰社して下さい。明日詳しいお話を聞きます」

「はい」


 井部はさっさとその場を離れた。


「あー、帰っちゃった。まあいいや。あんた主任かなんか?」

「あんたというのがエンジェルズベルの社長を指しているのなら、私です」

「へーっ、俺の半分くらいの歳じゃない! で、隣は彼氏?」


 私はためらいなくスマホをだして百十番した。夕闇で、車は通っても人通りがないのはまだしも幸いだ。公道でなければ顔が曲がるまで殴りつけたい。


「あ、警察呼んでも無駄だよ。ほら、民事不介入っつってさ……」

「もしもし、変質者が弊社の社員にしつこくつきまとっていましてね。すぐきて欲しいんです。会社はエンジェルズベルという名前で、場所は……」

「ね、人の話聞いてる? 俺、ただ話聞きたいだけなんだって」

「うわぁっ!」


 突然、正は緩やかに歩いて江原に軽く互いの肩を触れさせた。そしてすぐ、わざとらしく悲鳴を上げて道端に転んだ。


「大変です、傷害事件! 変質者が別な社員を突き飛ばしました!」

「おいっ! 俺はなにもしてねえよ! ヤラセじゃねえか!」

「うーっ、痛いっ!」


 正は右手で左肩を押さえながらごろごろ転がった。


「とても痛がっています! 証拠に動画を保存していいですか! はい、場所を今からお知らせします」

「クソッ、二人がかりで俺をハメやがって! このままじゃすまさないからな!」


 三流に相応しい捨て台詞を残し、チンピラは消えた。


「正、助かったよ」

「ああいう手合いは、得てして自分が加害者にされるのには慣れてないもんだよ」


 ぱんぱんと服をはたきながら、正はたち上がった。


 多少遅れて警察がきた。車道の端に止まったパトカーから二人組の制服警官が降りてくる。


 私が簡単に事情を説明すると、一人がきびきびメモを取り始めた。もう一人は、ケガの具合について正に尋ねた。


 私と正が口裏を合わせれば立派に江原は傷害罪成立だ。ただ、つまらないことに時間を浪費したくない。そこは正も阿吽の呼吸で、大したものじゃないが痛むと応じた。


 江原はとうに逃げたので、名前……偽名の可能性もあるが……と人相風体だけを伝えておいた。刑事ドラマみたいに警察署で事情聴取されるのかなと思ったら、連絡先を要求されただけで終わった。もっとも、もし江原が捕まればいつでも呼びだされるだろう。


 江原も馬鹿じゃないはずだし、そう頻繁にこの近辺をうろついたりはできなくなる。


 またなにかありましたらご遠慮なく通報をと締めくくり、警官二人は帰った。


「今日は俺が当番だけどさ……どこかでちょっと上等な料理でもどう? おごるよ」

「いいね! ちょっと待ってて」


 さっさと頭を切り替え、私は会社を閉めてから戻った。


「どこか、当てはあるの?」

「肉と魚のどっちがいい?」

「うーん……じゃあ、お肉!」

「よし。十分くらい歩くけど?」

「うん」


 最近、運動不足気味だしちょうどいい。


「どんなお店なの?」


 ニ、三歩進んですぐ、私は好奇心が抑えられなくなった。


「とんたけ。富山の富に松竹梅の竹」

「ちょっと変わった読み方だね」

「豚カツのとんとかけてるんだ」

「じゃあ、豚カツ屋さん?」

「そうだよ。胡椒の選び方が渋いんだ」


 あ、そういう意味で選んでるのね。不味いわけじゃないだろうからいいけど。


「あれ……?」


 歩きながらふと反対側の歩道に目をやると、見覚えのある少女が歩いていた。不安げにうつむいていて、若い女性が隣にいる。少女はスーパーでお肉を買っていた子だ。女性は公務員時代の知り合い……駒瀬こませっていう同い年。向こうは正職員で、まれに連絡を取り合う。エンジェルズベルの幽霊利用客でもあるから。

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