二十三、一同で鴨肉のロース煮 二
真奈江は、私のすぐ近くに座った。両親よりずっと離れていた。始と陽子はなんともいえない苦い顔をして向こうの端に固まっている。
「お待たせしました」
邦子から煎茶がだされ、場違いな香気が私の鼻をくすぐった。次いで始と陽子他全員に同じようにいき渡る。
「はい、どうも」
わざとらしく丁寧に湯呑みを手にし、一口飲む。邦子の性格はともかく、美味しかった。
「それで、私がここにきた理由につきまして」
おもむろに、一同の注目を浴びながら口を開いた。
「いくつかございますので順を追って詳しくお話致します。まず陽子さん。あなたはエンジェルズベルの会員登録を悪用し、弊社の社員と浮気していました」
陽子がびくっと震え、始はそれ見たことかといわんばかりになった。
「始さん、あなたがそれを知らされたのは弊社の井部からですよね?」
「ど、どうしてそれを知ったんだ」
得意になった瞬間を狙い撃ちされ、始は図らずも認めてしまった。
「あなたの『行為』を目撃した人間がいるからです。まだ警察には伝えていません」
最後の殺し文句で、始はまさに電気ショックを受けたかのように身体をよじらせ口をぱくぱくさせた。
「だから私は知りたいのです。そもそも、どうして陽子さんは浮気したのですか?」
「悪いからです」
「え?」
悪い云々の手前の台詞が小さくて聞き取れない。
「全部この人が悪いからです!」
陽子は自らの右人差し指を始につきつけた。
「な、なにをいいだす?」
「結婚するときには舅や姑は別々っていっておいて、結局二世帯住宅じゃない! 私のお金も入っていたのになんの相談もなく勝手に進めて!」
「棟は別々だから問題ないと説明したろう!」
「食堂は同じじゃない! ご飯の度に姑からぐちぐち嫌味を垂れ流されて、舅からは初孫が女かと吐き捨てられて、あなたが一回でも味方になったの?」
二人の本音を他人事として聞くのはなんとも感じない。しかし、真奈江が下を向いて涙を我慢している。
「ひとまずそれくらいになさって下さい。弊社としては、奥様の浮気相手であった宇土は懲戒免職としました。こちらからは告訴しないという条件つきで」
「告訴……?」
なんとも不吉な言葉に、陽子は固まった。
「当然でしょう、会社の評判を
脅しながら、ふと『金杖』を思いだした。一回使ったからには二回目があってもおかしくない。まして宇土の妻は相当執念深い。江原に全てを喋ったわけではない可能性もある。
と、そこで玄関の呼び鈴が鳴った。最初はだれも動かない。もう一回呼び鈴が鳴って、初めて邦子が壁にあるインターホンのスイッチを押した。
「宅急便です」
正の声だ!
「はい、どうも」
「私がいきます!」
少しでも、また一時的にでもこの場を離れたくなったのだろう。陽子が腰を浮かした。同時に、私も反射的に席からたち上がった。宅急便を名乗るのは間違いなく正の声だった。
「お手洗いはどちらですか?」
変に勘ぐられないよう、当たり障りなく聞いた。
「ここをでてすぐ右のドアです」
機械的に邦子は答えた。私は陽子の背中についていきながら食堂をでた。
お手洗いのドアを開けるふりをしながら、玄関を観察した。陽子がドアを開けると、だれもいない。私は廊下を全力で走った。
「待って!」
叫ぶのと、陽子が玄関口に足をさしかけながら私に振り向くのと、陽子の右足のかかとが不自然に浮かび上がるのが同時に起きた。
「危ない!」
慌てて陽子をうしろから抱き止め、戸口越しに宅急便の制服を身につけた正と対面した。
「な、なんでお前がここに……?」
私の方こそ知りたい。
「お取りこみ中失礼」
正のさらにうしろから江原が現れた。いつものむさ苦しい格好ではなく、髪を切ってネイビーブルーの背広ネクタイ姿になっている。右手にはアタッシュケースを持っていた。例の遺伝子サンプルが収めてあるはずだ。
「とにかく一度こっちへきて。正も。もうわかったから」
無理やり話をまとめ、私は蒲池家に二人の客を追加した。邦子と始はさらなる仰天を強いられた。邦子と始と真奈江は座っていて、私も含めた四人はたったまま。ここは、勢いを弱めてはならない。
「紹介します。こちらがジャーナリストの江原 武さん。こちらが……」
「私の部下の相川です」
江原が素早くでたらめを滑りこませた。エンジェルズベルの人間とここで知られるのはまずい。江原の機転に救われたのはいいとして、つまらないところで借りを作った。
「さ、さっき足元が……」
「陽子さん、偶然間に合ってよかったですね」
すかさず私が潰した。陽子は沈黙した。
「それで、ジャーナリストの部下がどうして宅急便になりすますんですか?」
邦子の質問は、それ自体はもっともだ。
「いや、失礼しました。お宅様のご主人を追っているのですが、門前払いを受けかねないので少々変則的な方策を取ったのです」
平然と江原は虚実を混ぜた。
「夫がなにか」
「最近になって経営破綻したばかりのゴルフ場ですよ。この街から見えるでしょう? これから県議選の準備をしようというときに、いささか具合が悪いですね」
「存じません。お引き取り下さい」
「まあ、ゴルフ場の経営があやふやになってきたからこそ私も色々把握できたんですがね」
「帰って下さい! 警察を呼びますよ!」
「それをしたらお宅様も困るんですよ、引中 邦子さん」
今度は邦子と私に落雷がさしかかる番になった。
「私の旧姓がどうしたんですか!」
「引中家は全く別々の系統が二つありましたよね。一つは豪農、もう一つは暴力団。三十年前に組長のお嬢さんだったあなたは蒲池 宏氏、つまりのちのご主人と結婚した。ご主人は県庁の職員で、その意味でも互いの利益になった」
「知りません!」
「ご主人は暴力団と手を組んでゴルフ場の予定地を奪い取るのに尽力した。その一方で、女癖がいいとは決して言えなかった」
そこで江原はアタッシュケースを食卓に置き、中から書類をだした。
「エンジェルズベルの社長の久保さん。たった今、鑑定結果がでましたよ。ご主人の実のお嬢さんです。もっとも母親はわからずじまいですがね」
サンプルは回収しても、鑑定そのものをまだ始めてない。だからハッタリに過ぎない。
「ど、どうやってそんなことを知ったんですか?」
邦子は目に見えて動揺している。
「今日、お孫さんがたまたまちょっとした家出をなさったんですよ。それで、久保社長と会ったんです。お断りしますがあくまで偶然です」
「そんなすぐにわかるものなのですか?」
精一杯の邦子の反論を、江原は鼻を鳴らしてあしらった。
「金さえだせば数時間で結果をだす業者がいましてね。なんなら追試しても構いませんよ。こちらにもサンプルはまだ残っていますし」
「な、なにが目的なんですか。お金なら払いませんよ」
「私は安っぽいゆすり屋じゃありません。まず、ご主人から正式に久保社長を実の娘と認めて頂く」
「……」
「次に、ゴルフ場造成にかかわる汚職も打ち明けて頂く」
「主人は汚職なんて……」
江原はアタッシュケースから二つ目の書類を明るみにした。
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