二十三、一同で鴨肉のロース煮 一

 真奈江と会社をでてすぐ、二人で電車に乗った。昼下がりの、一番空いている時間帯になる。私達がいる車両には、他にだれもいない。


「お家までどのぐらいかかるの?」


 座席に腰を降ろすなり、私は尋ねた。


「うんとね、だいたい二十分くらい」


 時間の計算は、小学校の低学年には少しややこしい。普段から鍛えられているのか、それほど手間をかけずに答えてくれた。降りる駅についてはすでに教えてもらっているので、あとは待つほかない。


 五分ほどすると、真奈江はこっくりこっくりし始めた。朗らかな性格をしてはいるものの、両親の言い争いなど精神に負担がかからないはずがない。まして実質的な家出をしている。多少は面識があるのは差し引くにしても、私のような他人と入ったこともない建物の中にまで至ったのだから。


 柔らかく黒い髪を伸ばした頭が、私の左腕にもたれかかってきた。我知らずその小さな頭を撫でる内に、電車は目的の駅に停まった。真奈江を起こし、再び歩き始める。


「ここか……」


 二世帯住宅なのが一目でわかる、洋風でクリーム色の壁もまぶしい優良物件。建物を取り囲む塀は、正門のアーチだけが出入り口になっている。その脇には、黒灰色のインターホンと表札と郵便受けがあった。表札に家族の細かい名前まではない。


 市民からすれば立派な邸宅だが、『壁』からすれば隙だらけだ。郵便受けはその気になればだれでも開け閉めできるし、防犯カメラの類もない。インターホンは有線式で、カバーを手で開けてこちらから屋内側のマイクに干渉する機械をセットできる。もっとも、今それらは関係ない。


 腕時計で時刻を見てから、バッグを開き自分と真奈江の遺伝子サンプルを郵便受けに入れた。江原にメールを送り、アーチを仕切る鉄柵を開けて中庭へ進む。色とりどりの花壇や植木が美しい。多分、邦子の趣味なのだろう。


「あなたの部屋に人がいるのはとっくに知ってます! 愛人を囲っているのはあなたでしょう!」


 まだ若そうな女性の、甲高い糾弾が壁にも阻まれずに飛びこんできた。


「お前が他人をどうこう言えた義理か! せめて、黙って数日待つくらいできないのか!」


 言い返すのは、まだ若そうな男性の声。始だろう。その声音は、いつぞや『アスファルト』が解析したものと同じだった。


 背中が急に引っ張られ、振り返ると真奈江がしがみついていた。がたがた震えている。無力で哀れな姿が、私に次の一歩を踏みださせた。玄関のドアに手をかけると、鍵はかかっていなかった。真奈江がでていったきりなのだろう。


「いい加減にして、二人とも! それより、真奈江はどこなの? おやつの時間よ」


 玄関を開けた瞬間、老いた女性の声が転がってきた。邦子で間違いないだろう。靴からすると、総務部長はまだ帰っていない。


「真奈江さんならここにいます!」


 叫ぶなり、真奈江の手を引いて靴を脱ぎ框をまたいだ。飴色をした板張りの廊下に自分の姿が鈍く映る。真奈江も靴を捨てるように脱いで続いた。


 口論の場であろう部屋は、廊下の突き当たりのようだ。ずんずん進み、ドアを開けた。


 暖炉風のオーブンまで備えたレストランさながらの台所と、それに隣接した食堂。青白いテーブルクロスがかけられた大きな空豆型の食卓には黒くピカピカに光る椅子が五つあった。


 その内の二つは、私よりは歳上でも邦子よりははるかに若い男女が座っている。男性の方は白いワイシャツに茶色いコットンズボンで、ブランド物の腕時計を左手首につけている。女性はモスグリーンの肩かけに青いブラウスで、茶色いロングスカートをはいていた。耳には翡翠のイヤリングをつけている。


 『エンジェルズベル』の登録写真と江原の情報から、彼女が陽子……宇土と不倫した人間なのはすぐに知られた。となれば、男性は陽子の夫、始。妻がいたにもかかわらず、井部を妊娠させて知らん顔をした男。


 その二人に面してたっているのは渋紙色の和服を身につけた初老の女性、すなわち蒲池 邦子。


「あなた、どなた? どうして勝手にきたの? 真奈江をどうしたの?」

「お初にお目にかかります。オンライン陶芸教室の後援、結婚相談所エンジェルズベルの社長で久保と申します。勝手にお邪魔して申し訳ございません」


 エンジェルズベルの名前に触れ、始と陽子は別々に表情を変えた。


「それなら、なおさら正門のインターホンで御用を仰るのが筋でしょう」


 この期に及んで形式論にこだわる邦子。


「はい、ですが真奈江さんは一刻も早く帰りたがっていましたので」


 その真奈江は私のうしろに隠れたきりだ。


「どういうことなのか、ご説明下さい」


 冷ややかに邦子は促した。当人の立場からすれば無理もない。


 邦子が彼女なりに真奈江を可愛がっていたのは間違いない。この中では、真奈江をおいておくならある意味一番まっとうな人間のはずだ。それなのに、始に対して感じるのと同じくらい強い嫌悪感が湧いてくる。


 重要なのは、時間。蒲池家の世帯主にして県庁総務部長、蒲池 宏をこの場に参加させるまで場を持たせること。あと数時間か。


「無論です。しかし、たち話ですむことではありません。ご子息夫妻にもかかわる内容です」

「では、お席について下さい。真奈江は……」

「真奈江さんも同席せねばなりません。でないとこの先、ご両親への不信感につながる恐れがあります」


 ぴしゃりと私は遮った。


「なんの権限があってそんな指図をするんですか?」


 あからさまに不快な表情をする邦子に、動じている暇はない。


「失礼ながら、他所まで聞こえるほどご子息ご夫婦の口論は激しくなっていました。とうに真奈江さんも大雑把な背景を知っています。なら、中途半端に隠すのはかえって具合が悪いでしょう」


 邦子のような手合いは世間体だけが大切だ。それが割れた以上、反論が続くはずがない。


「わかりました。お席にどうぞ。真奈江も」

「もちろん、お茶の一杯くらいはだすんですよね?」

「言われなくてもそうします!」


 こんな程度の挑発に簡単に乗るならやり易い。油断は禁物にしても。


「それじゃお待ちしますよ」


 いわゆるお誕生日席に近い席に、私は座った。薄手のカーテンが引いてあるとはいえ、ガラス戸を背後にしている。日光が私から一同にかかるということは、つまり心理的な優位にたちやすくなる。

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