トマトからさかのぼる、私の血

マスケッター

一、トマトへのこだわり 一

 冬の夜風が、ときおり窓を叩いている。


 私は今日の当番として自分と恋人の夕食を作るため、フライパンをふっていた。トマトソースを焦げつかせるのは許されない。


 朝昼の食事は勝手にして構わない。夕食は、一日おきにくる当番の日に、当番側が自腹で二人分買って調理する。片づけは非番の側がする。


 台所にはガスコンロが二つあり、一つはフライパン、もう一つは鍋が据えてある。鍋のなかで、沸騰した塩水につかったパスタがぐにゃりととぐろを巻いていた。


 私の頭の中では、もう何年も前からずっと同じ考え……というか気持ちがとぐろを巻いている。


 結婚しようがすまいが、私は死ぬまで久保 みおだ。一方で、自分の体に流れる『血』がどこからきたのかに悩んでもいた。


 ほどほどに大きな街……首都圏に近い県庁所在都市……に住んでいるおかげでか、身を固めたらだなんて『善意の隣人』からかされるようなことはない。


 アパートは彼氏名義で、これでも二LDK。それなりの値段がつくものの、家賃や光熱費だけ折半する。それ以外は自分の勝手。


 おたがい二十代……若さに任せてか、それとも結婚するほどの勢いをえられずじまいでか。同棲を三年ほど続けている。いや、先日年が改まったから四年目か。相手によるところも大きいのだろうけど、ほどよくおさまっている。


 恋愛そのものに不満はない。一方で、妊娠適齢期なのは自覚しつつ結婚や出産には迷いがあった。特に、籍入れだの改名だのはある意味でおぞましくすらある。


「今日の客、ちょっと気の毒だったな。散々苦労してやっと漕ぎつけたのに」


 彼……相川 ただしが、食卓でスマホをつつきながら話しかけてきた。客とは結婚相談所の登録者を指している。正はそこで働いていて、私の部下でもあった。私人としては不干渉主義の私が、公人としては他人様の結婚のお手伝いをしている。社長として。


「そう。どんなコースだったの?」

「駅前で待ち合わせして、レストランで昼食して少しドライブ。その予定が、でだしから改札で三十分待ちぼうけだってさ。ま、あとでお詫びのメールがきたみたいだけど。あ、もう結構ですって意味ね」

「気の毒だね。たしか検見けみさんでしょ?」


 履歴書なんかを読む限りでは、実直な印象が残っている人だった。少なくとも悪意を持たれるようなことはないはずだ。ただし、売れない陶芸家をしていて五十代にさしかかっている。利用者全員の幸福を願うのは当たり前にしても、一番成功しにくいグループに入っている人はより強く肩入れしたくなる。


「そうだよ。性格はいいんだから服とかちょっとは金かけりゃいいのにな」


 そういう正はそこそこ背が高く、目鼻だちは少々のっぺりしている代わりに人柄は穏やか。少なくとも私といるときは。


 私はといえば、他人はできるだけ放っておく。背丈も髪の長さもお洒落も少しずつ控え目な私は、初めてできた男が正でほっとしている。


「おっと忘れてた。苺を買ってきてたんだ。澪、欲しがってたろ?」

「わあっ、ありがとう!」


 これは聞き流せない。トマトの次に好きな食べ物だ。高いしあくまでデザートだからいつも食べている品じゃないけれど。とにかく、振り向く余裕もないまま心からお礼を述べた。


「じゃあ冷蔵庫の野菜室に入れておこう」

「うん」


 私もそうだけど、正は好き嫌いがない。片づけもちゃんとこなす。今日はたまたま私が料理当番なだけで、明日は立場が逆になる。だからといって、二日に一度必ずトマトソースやケチャップを使った夕食を取る生活ってどうなんだろう。


 トマトへのこだわりは、自分にまつわる『血』へのこだわりでもあった。だからこそ、この名を変える気も捨てる気もない。


 私は、児童養護施設の出身だ。生まれて間もない内に捨てられた。親であろう人間が私に残した品は、ゆりかごとおくるみと一枚のメモ……トマトソースを使った離乳食のレシピ。それとは無関係にしても、施設はトマト農園に力を入れていた。二重の意味で私の食生活はトマトと近似値になった。


 正は、実質的に破綻した家庭で育った。いや、生き延びねばならなかった。両親はそれぞれ不倫にいそしみ、どちらかの愛人が家にきたら逃げるか殴られるかしないといけなかった。学校で、『いつも同じような食事ばかりでてくる』と家の愚痴をいう同級生がうらやましくてたまらなかったそうだ。


 私達はお互いに、相手の過去は一通り知っている。その上で、私が持つ自分の血へのこだわりに正はどうこういわない。もちろん、頼めば手を貸してくれるだろう。ただ、私がはっきりそういわないかぎりは放っておいてくれる。結婚についてもなにもいわない。それがとてもありがたいし、彼を好きな理由だ。


 パスタが茹で上がった。流しでザルに受けてお湯を捨て、二つのお皿にわける。それからトマトソースをかけて出来上がり。


「お待たせ」


 両手に一枚ずつお皿を持って振り返った。


「うまそうだ」


 目を細めた正の顔はとても可愛らしい。


 お皿を置いて、向かい合う形で座った。正の肩ごしにカーテンが見える。エメラルドグリーンで少し値が張るのを思いきって去年買った。その脇には今年買い換えた少し大きな液晶テレビがある。テーブルに目を移すと、湯気をたてるパスタの他に水を入れたコップとワイングラスがあった。コンビニで売っている安物の赤ワインが、ささやかな贅沢。


 正の手元にはガラス製の細長い瓶があった。中には砕かれていない胡椒こしょうがつまっている。瓶の蓋にはスイッチがあって、押せば自動的に瓶の底にセットされたミキサーのような機械が胡椒を砕いて真下に落としてくれる。つまり、いつでも挽きたての胡椒をかけられる。


 エプロンを外して椅子の背もたれにたてかけ、私も席についた。


「頂きます」


 二人で唱和して、私はフォークを手にした。正は胡椒の瓶を持ってスイッチを押す。モーターの回転するかすかな音と共に、粉末胡椒がパスタに薄いまだら模様を作った。瓶を置いて少し香りを楽しみ、おもむろにパスタを食べる。


 しばらくは私も正も黙々とパスタを食べた。トマトソースにはニンニクを入れない代わりに、風味づけにはワインではなくブランデーを使う。もちろんベーコンも入れる。唐辛子は控え目にして。


 そうして作ったパスタは、かすかに舌にヒリつく辛味とトマトの酸味がベーコンの旨さを引きたてる。それがパスタの食感と重なって口を動かす。


「さっきの検見さん、ずっとスーパーでバイトしてるの?」


 自分のパスタが半分ほど減ったところで、おもむろに私は聞いた。


「ああ」


 検見さんは、バイトが命綱になっていた。中年の男性として珍しくもないが、運動不足でたるんだ顔身体に野暮ったい服装をしている。およそモテる人間じゃない。それをどうにかするのが私の会社、結婚相談所『エンジェルズベル』の役目だ。念のために断っておくと、自分が結婚に興味ないからって他人がそれに幸せを見つけるのはなんら否定しない。自分と他人の区別をつけるのはどんな仕事でも必要だろう。


 エンジェルズベルの元手はお金じゃなく人間だった。最初は単純で、正の友人と私のそれを合コン形式で引き合わせてなにがしかの手数料を上乗せするくらいだった。それでも、熱心にやったおかげで実際に結婚するカップルも現れた。そうして下地を作ってから、古ぼけた雑居ビルの一室を半年だけ借りた。半年、というのはうまくいかなかったらさっさと事業をたたむつもりでいたから。慎重に構えたのがよかったのか、カップルになった人々の口コミとスマホのブログで宣伝を行い少しずつ登録者を増やしていった。それが二年前の話だ。


 去年、少しは格の高いビルに引っ越した。もっとも、私自身はこのアパートの自分の部屋を『職場』にしている。引っ越ししたあとのビルには正と、あともう二人の社員が勤務している。


 社長の私こそビルにいないといけない……そんな意見は私にいわせれば時代遅れだ。

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