一、トマトへのこだわり 二

 本当に大事な決裁を私が処理するのは当然として、別にその場に居合わせなくてもメールで送ってくればいい。登録者と面接したりデートコースのセッティングをしたりするのは得意な者にやらせてしかるべき報酬を払う。


 正は平社員。だからこそ、現場で皆が滞りなく仕事をしているかどうか円滑に確かめられる。社長がいくら頻繁に現場を見回っても所詮はポーズだし、社員もポーズより高い水準の仕事はしない。


 それにしても、検見さんはいつも『服や店は自分で選びますから、相手だけ紹介して下さい』といって聞かない。好きなようにさせる他なかった。


「もう四十七歳なんだし、意固地になっても仕方ないのにね」


 そう答えつつ、少しだけ検見さんに共感する部分もあった。自分に合うか合わないかを中途半端に妥協して、結局酷い目に合う人間を山ほど見てきたから。


『久保さん、いい人いないの? なんなら紹介しようか?』


 陰に陽に寄せられる、私が一番嫌いな台詞が同時に思い起こされた。


 結婚相談所が軌道に乗るまで、私は県庁の非常勤職員と二足のわらじだった。内緒で。


 基本的に、常勤であろうとあるまいと原則として県庁の職員は条例で副業を禁止されている。他の自治体では許可された例もあるけど、とにかく駄目なものは駄目。


 汚い言葉だがクソクラエだ。常勤ならまだしも、いつ首を切られるかわからない非常勤でそんなバカげた規則に縛られる筋合いはない。といって、頓珍漢な慣習で自縄自縛な民間企業に入るつもりもない。さすがに外国へいくのはお金がかかりすぎるし突飛すぎる。どのみち非常勤などという立場は自立の踏み台を模索するまでの一時しのぎに過ぎなかった。そうでもしないと、一生他人の食い物にされる。


 そんな私に男だ結婚だで声をかける連中の考えは、結局は『女が社長になる一番の近道は社長夫人になること』と根っこが同じだ。にこにこしながらやんわりと断るのも仕事の内だった。


 そうした発想を軽蔑しつつも、お金になり得るという意味では観察して肥やしにした。水の向け方次第では、いくらでも自分や他人の秘密をぺらぺら喋ってくれたから。


 そんな回想を踏まえつつ、口直しに赤ワインを一口飲んだ。パスタの残りも平らげる。正も、ほぼ同時に食べ終えた。


「ご馳走さまでした」


 律儀に正は頭を下げた。


「お粗末でした」


 私が返事をすると、彼は私の分も食器をまとめて流しに持っていった。スポンジに洗剤をつける後ろ姿を横目に、私は冷蔵庫を開けた。


 どうせなら、赤ワインがまだ残っているしサラミかスライスチーズでもあてて正とゆっくり楽しみたい。


 苺はそのあとだ。いうまでもなく、それは一人でやる。


 しかし、サラミもチーズもほとんど切れかけだった。関係ないがケチャップも。


「あれっ、おつまみがもうないね」

「しまった、買い忘れたな」


 洗ったばかりのお皿をキッチンペーパーでぬぐいながら、正が肩ごしにいった。


「じゃあ買いにいってくる」

「いいよ、俺がいくから」

「たまには外にでなきゃ。だれかさんみたいに太るもんね」

「それ俺のこと?」


 そこで初めて振り返った正は笑っていた。私も笑いながら冷蔵庫を閉め、返事をしないまま上着を着て玄関で靴をはいた。ポケットから感染症予防のマスクをだして身につけ、ドアを開ける。


 外は寒かった。パスタとワインのおかげで多少は身体が暖まっているものの、さっさと帰るにしくはない。


 吹き抜けの張り出し廊下を歩くと、夜空の端に連なる山々が遠目に見えた。五階なのでかなり見晴らしがいい。いびつな星座のように中腹で光っているのは打ちっぱなしのゴルフ練習場だ。どこかの政治家だか暴力団だかが利権に絡んで新聞沙汰になったことがある。結果がどうなったかまではよく知らない。


 廊下を抜けてエレベーターに乗り、一階で降りた。


 コンビニは、道路越しの真向かいにある。


 横断歩道を渡って店に入り、まず手を消毒する。スライスチーズとサラミは当然として、ケチャップはどうしよう。えい、買ってしまえ。


 ケチャップも買い物籠に入れて、勘定をすませた。レジで買い物袋もつけてもらう。


 お店をでると、再び冷たい風にさらされた。マスクをしているし、近所だからリップクリームをしていない。他人に見えないのをいいことに、軽く舌で唇を湿した。


 横断歩道で信号待ちをしていると、一台の青い普通車が通り過ぎた。運転しているのは、痩せて貧相な中年の男だった。顔も名前も知っている。検見さんじゃない。


 宇土うど 実、私の部下で正の上司だ。肩書きは主任。正直なところ、もう少し儲かれば別な人間を雇いたい。


 助手席には見知らぬ女性がいた。私や正よりは歳上で、宇土よりはずっと若い。夫婦にしてはちぐはぐな取り合わせだった。親戚かなにかだろうか。二人ともマスクは外していた。路上や電車の中などと違い、自分……達……の車の中でまでマスクをする人間は取りたてて多くはない。


 その時、スマホが振動してメールの着信を告げた。

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