十八、グラタンは愚痴のあと始末 二
駒瀬を送った駅から電車に乗り、帰宅した。土間には正の靴がある。路上から目にした限りでは明かりが消えていたし、自分の部屋で寝ているのだろう。
「ただいま」
コンビニで食事を終えたときと同じように小さく呟き、靴を脱いだ。さっさとお風呂で暖まって、私も寝よう。
浴室のリモコンパネルは、食堂にもついていて温度や量を設定したり確認したりできる。正が気を利かせてくれて、お湯が溜めてあった。脱衣場で服を脱いでいると、かすかな違和感に手が止まった。ほんのわずかに、ゲロの臭いがする。正は吐くまで飲んだりしない。少なくとも私は見たことがない。病気とも思えない。
普通の人間なら気づかないし、気づいても無視するようなレベルに過ぎない。路地裏でゲロまみれの男を見たりしたので、過敏になっているのだろう。
明日はオンライン陶芸教室の模擬演習が仕上げになる。ゲロに構ってなどいられない。
翌朝。
エンジェルズベルには、いつもと同じように社員一同が集まった。
模擬演習は朝から始まる。休憩室で黙々と設営をおこない、正は何度もカメラやマイクのテストをした。動作になんの乱れもない。井部は、設営が終わったら台本を繰り返し読んでいた。こちらもいたって冷静。
午前十時半。
ヘッドセットをつけた井部の前で、パソコンのスイッチが入った。回線が開かれ、同じようにヘッドセットをつけた検見さんが現れる。相変わらず作務衣だった。正はデジカメ越しに井部を背後から眺め、私は別個に構えた自前のパソコンで井部と同じ画面を見ている。
「おはようございます。検見オンライン陶芸教室のお時間です。本日は、私の講義を受講してくださりありがとうございます。それでは早速始めましょう。まずは、お手元の教材をご確認下さい……」
一限目の座学は滞りなく終わった。お昼を経て二限目。
「それでは、実際に簡単な器を作って見ましょう。練習としてコーヒーカップを……」
「先生」
いきなり井部が遮った。
「はい」
「台本にない話でとても申し訳ないんですが……離乳食用のお皿、私に教えて頂けませんか? あれから自分で研究しましたが、どうしても最後の二時間では無理なんです」
仰天した正が目を見開いたまま私に顔を向けた。いや、どうしたことなのか知りたいのは私の方だ。
「それは、なぜですか?」
感情を崩さない検見さん。はらはらしつつも見守る他はない。
「この前の件、私もずっと悩んでいたんです。器は使うことを考える……それを、離乳食用のお皿で実現して初めて私達全員が次に進めると思うんです」
「それは、会社でまとまっていたお話ですか?」
「いえ、私の独断です」
「では、まず社長の決裁を仰がねばならないでしょう」
井部がこんなに思い詰めていたなんて。事前に相談してくれたらいくらでも応じられたのに。
山ほどいいたいことができた。それをあと回しにせねばならないこと自体にも山ほどいいたいことがある。
「大変失礼な見当違いになり甚だ申し訳ありません。その上で、私からもお願い致します」
私は心から検見さんに頭を下げた。
「わかりました。ただ、今回予定してある残り約四時間でどれほどの品ができるかはお約束できません。それでよろしければ」
「ありがとうございます」
ひたすら恐縮する他ない。
それからの四時間、私と正は模擬演習に存在しつつ存在しなかった。いや、最初から監督と裏方なのだから当たり前か。その当たり前を、理屈以上にひしひしと実感させられた四時間となった。
時間ぎりぎりいっぱい、定時寸前にお皿の原型が一枚できた。
「それでは、これで全ての講習を終えます。最後までお聞きくださりありがとうございます。お疲れ様でした」
締めくくりだけは台本通りに検見さんがまとめ、一同は一気に脱力した。
「先生……改めて、本当に申し訳ございませんでした」
画面に向かってまず私は、頭を深々と下げた。
「いえいえ、とんでもない。臨機応変に対応して下さってありがたいです」
他の人間が同じことをいったら、皮肉としか受け取りようがない。検見さんの人柄なので素直に心に響き、それがますます恐縮さをかきたてた。
「先生、社長、相川さん。勝手なことをしてすみませんでした」
ええ本当に勝手なことですねと叫びたい気持ちを、辛うじて抑えた。
「これは私が皆さんにお礼を申し上げ、かつお詫びせねばならないことです」
いつになく、検見さんが素早く割って入った。
「離乳食用のお皿については、私からどうするのかをはっきりさせねばなりませんでした。それをあやふやにしたまま本日に臨んだところが私の未熟さです」
検見さんは一度言葉を区切り、井部は心持ち両肩の角度がさがった。
「井部さんのおかげで、私は自分の姿勢を見詰め直すことができました。ここで皆さんと手にした成果を、受講者の方々にお伝えしていこうと改めて強く感じているところです」
「ありがとうございます……ありがとうございます」
井部は涙ぐみながら何度も感謝した。私も、結果として成果がでたのなら怒ってばかりもいられない。
「井部さんが作られたお皿は、必ず私が責任もって仕上げます。それでは、郵送をお待ちしております」
「はい、お疲れ様でした」
もう一度私は頭を下げ、回線を切った。
井部に対してどう接すればいいのか。正念場が一つ増えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます