十九、カキフライで明日に備える 一

 とはいえ、今日は私も含めた全員が疲れている。井部から詳しい話を聞くのは、明日に持ち越した方がいいだろう。今日は正が夕食当番。こんなときこそご馳走が欲しい。帰宅して早めにお風呂につかった。


 心身ともに暖まり、お風呂が終わってしばらくすると正が玄関をくぐった。買い物の成果を右手に下げている。


「ただいま~」


 いかにも疲れきった様子だ。


「お帰り。お風呂沸いてるよ」

「おっ、いいね! でも、ご飯を先にしたくないか?」

「うん、それくらい待つから」


 正は身体を洗ったらすぐに浴室からでてくるタイプ。


 脱衣場に姿を消した正をよそに、食卓に置かれたままになっているビニール袋に注目した。カクマートとはまた別のお店で、私の知らないロゴが印刷されている。


 ちょっとお行儀悪いかなと思いつつも、がさごそ中身を検分した。ふむふむ、今晩はカキフライだね。


 熱々汁気タップリのカキフライにケチャップをかけて口に運ぶ場面を想像し、お腹が鳴りそうになった。


 その直後、食材からは全く想像もつかない臭いがほんのかすかに漂ってきた。


 金物……錆びた鉄のような臭い。決して心地いいものではない。他の人間なら気づかなかっただろう。たまたま運が良かったから……あるいは悪かったから察知できた。ビニール袋の中にこもったその臭いが、ある程度凝縮された形で私の鼻に届いたから。


「いやー、いい湯だったな」


 全身から湯気をたち昇らせて、正が戻ってきた。その頃には、私はなに食わぬ顔で食卓に構えた椅子に座っていた。スマホでくだらないネットニュースを読みながら。


「すぐにかかるよ。お腹減っただろう?」

「うん」


 スマホから顔を離して、笑顔で答える。


 あの変な臭いは、特に今問い詰めるようなことではない。いずれにしてもまずはご飯だ。


 正はフライパンにサラダ油を満たして加熱し、一方で牡蠣のむき身パックを開けた。中身の水を捨ててからむき身をボウルに入れる。それを蛇口の下に据えて、水と一つまみの食塩を混ぜて軽く洗い小麦粉とパン粉と卵を用意した。野菜類は別個に並べてある。


 カキを洗い終えると、白い平皿にキッチンペーパーを敷いてから一つずつ移した。次いで、カキを洗うのに使ったボウルの縁で卵を割って溶き、水を加える。あとは、小麦粉をまぶして卵に浸してからパン粉をまぶしフライパンいきとなる。


 揚げ物の中でも、カキフライが揚がる音は格別だ。夏場の岩ガキも美味しいけど、この季節のカキフライは路上で冷やされた身体を内側から暖めてくれる。


 カキフライが仕上がるまでに、正は手早く野菜を切った。キャベツの千切りにプチトマトを添え、揚がったばかりのカキフライを油を切ってから盛りつける。今回も織部焼の出番だ。


「お待たせ」

「もー、お腹空きすぎ!」


 はしゃぎながら正が席につくのを待ち、夕食が始まった。正は白胡椒を粗挽きでカキフライにかけ、私はケチャップ。


「井部さん、あんなに語るなんて意外だったな」


 キャベツをあらかた食べて、正はしみじみ感想を述べた。


「なにか特別な思い入れがあったのかもね」


 当たり障りなく会話をつなぎながら、井部の言動を思い返す。


 そもそも彼女は、『壁』の実動要員として招いた。それまでは、井部は労基法を無視して職員を使い捨てにする頓珍漢な老人ホームで働いていた。そうした職場は社会に……特に安定した地位を持つ人々に……不満を持つ人間を探すのにうってつけだった。


 大抵の施設では、職員をホームページで紹介している。ご丁寧にも顔写真と専門分野と階級の解説つき。井部は、福祉の専門学校を卒業してから三年ほど最末端・最下級の地位に甘んじていた。


 私はまず、その老人ホームに個人的に見学を申しこんで井部に名刺を配った。エンジェルズベルの社長肩書きが記してある。他の職員にも全員配るのがミソだ。


 数日してから、ありもしない苦情をでっち上げて井部と話をさせるよう電話で要求した。腐敗した職場では、上司が責任を取らず末端に全てを押しつける。だから、井部が私の要求に応じて電話にでるのはわかりきっていた。それからは、転職の誘いかけをして井部の反応を待つ。仮に効果がなければ、別な施設で似たようなことをする。


 さすがに二つ返事とはいかなかったものの、二日後にはメールを受信した。そこからはトントン拍子だった。


 エンジェルズベルの社員としても『壁』の一員としても、井部は理想的といってよい。口が固く辛抱強い。約束は必ず守り機転が利く。立場の弱い人間の発想を知っている。


「案外、彼氏と悶着していたりしてな。あてずっぽうだけど」

「なにそれセクハラだよ」


 井部は整った顔だちをしているが、浮いた話は想像もつかない。

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