十九、カキフライで明日に備える 二

 いや、他人がどうこうしていいことじゃない。などと考えつつ卑俗な可能性も無視はできない。


「客観的な可能性を吟味しただけだって。明日にでも本人に説明させるんだろ?」

「うん」

「なんかこう……熱心だけど思い詰めるタイプなんだろうな」


 しみじみ述べた正の言葉に、コメントはできなかった。


 カキフライはまだまだ十分に熱く、ケチャップをかけた程度では冷めない。はふはふいいながら濃い汁気を飲み下した。お皿は黙っていつもの模様を浮かび上がらせた。


 翌日。朝一番に井部を休憩室へ呼んだ私は、差し向かいで昨日の件について尋ねた。


「まず、勝手な振る舞いをして申し訳ありませんでした」


 井部がそんな風に頭を下げる姿も、想像できなかったといえばできなかった。


「はい」


 それだけ言葉をだして、次の台詞を待つ。


「検見先生は、以前からご自分の仕事に厳しい方でした。いくつかご縁ができそうだったのに、そうしたこだわりで惜しくもすれ違ってしまったこともありました」

「はい」

「私は、そんな先生がご自分の抱えた失敗をあやふやにしたまま先へ進まれるのを見すごせなかったのです」

「最初に、私に相談すれば良かったでしょう」


 手厳しく接するつもりはなかった。なのに、言葉は裏腹になってしまった。


「おっしゃる通りです。本当に申し訳ありません」

「どうしてそうしなかったの?」

「社長が応じて下さるかどうかわからなかったのと、もし先生が断った場合は私の独断専行ということにした方が会社へは傷がつきにくいと判断したからです」

「そういう発想はわからなくもないけど……社長としては一番困ります」

「申し訳ありません」


 三度同じ謝罪をした井部の身体は、ずいぶん小さく見えた。失望して軽く扱うことにしたからではない。なにか、もっと大きな重しがのしかかっているように感じられた。


「ところで。あなたがああした振る舞いをした理由は、それで全部ですか?」

「いいえ」


 三回目の謝罪よりも一層思い詰めた表情で、彼女は首を横にふった。


「では説明して下さい」

「私は、一回中絶しています」


 検見さん云々とはまるでかけ離れた事情がでてきた。


「続けて」

「老人ホームで働いていたときに、利用者を見舞いにこられたお孫さんと知り合って……私はまだ二十歳でした。相手の男性は三十代になったばかりで、妻子がいました」

「いつ所帯持ちだと知ったの?」

「おつきあいして一年辺りです。妊娠がわかって、結婚を希望したらそういわれました」

「……」


 それこそ『金杖』の出番だろう。井部は悪くない。叩きのめされねばならないのは男の方だけだ。


「それで、相手とは別れました。お腹の赤ちゃんはそこで終わりました」


 だから離乳食のお皿にこだわったのか。口にする必要のない確認を頭の中で反すうしつつ、結論をまとめた。


「個人的な、とても辛いお話をしてくだりありがとうございます。今回の件はそれで終わりとします。さ、仕事に戻りましょう」


 もらい泣きを我慢しながら、私は促した。


「ありがとうございます……すみません、ありがとうございます……」


 井部は、ハンカチで目を押さえた。危うく私もそうするところだった。


 自分の机に帰ると、正からのメールがパソコンに入っていた。検見さんのオンライン陶芸教室は、正式な開催を数週間後に控えてエンジェルズベルから宣伝されている。早速、十名ほどの参加リストがまとめられていた。


 駒瀬の名前がにあるのはいいとして、無視できない名前が二つ。蒲池 邦子と蒲池 真奈江。真奈江は邦子の孫と明記してある。


 同じメールは井部にも送信されていた。そして、井部からもメールがきていた。曰く、蒲池 邦子とは自分が妊娠させられた相手の実母と同姓同名で、生年月日も住所も同じだと。皮肉にも老人ホーム時代の記憶が一致した。そうなると、井部が盗聴してきた一家は図らずもその蒲池家ということになる。井部が最初から知っていたかどうかは、あえて詮索しない。


 しかし、蒲池家は私個人の出生の秘密にもかかわりがあるらしい。井部をこのまま蒲池家の探索につかせるのは、どう考えても面白くない。『壁』と井部の個人的な悲劇とはなんの関係もないにしても、検見さんの一件で明確になった。非常に気の毒で同情はするのだけれど。


 私だ。私自身こそが、邦子なら邦子に直接ぶつからなければいけない。そういう時期に差しかかったということだろう。だからといって、エンジェルズベルに影響をきたすようなことは絶対に控えねばならない。まして検見さんに迷惑をかけるのは論外だ。


 正々堂々、ありのままをメールかなにかでぶつけるか。邦子が、自分や家族に大したとばっちりはないと判断すれば教えてくれる可能性はあるだろう。そうでなかった場合は、せっかくの手がかりが断絶してしまいかねない。


 蒲池家と私との間に、はっきりしたつながりがあるのかないのか。それを、先方には知られないようにしてこちらだけが知っておく必要があるだろう。例えば蒲池家の人間の髪なり爪なりを入手して、どこかの機関に遺伝子鑑定を依頼するというような。


 いざ考え始めると、相手の同意なしに相手の体の一部を手にするというのは極端に難しい。私はもちろん、井部だってテレビや漫画にでてくるようなスパイじゃない。あくまで素人として、限られた肉体や知識の範疇で活動している。


 一つだけ攻め口がある。真奈江だ。まだ小さいし、人を疑うことを知らない性格をしている。


 中学校の理科で、頬の内側の細胞を綿棒で採取して観察する授業がある。小学校の低学年で習うはずはないが、邦子をいいくるめればサンプルを提供してくれるだろう。問題は、具体的な脚本とタイミングだ。


 しかし。いくら自分の親をはっきりさせるためとはいえ、なにも知らない小さな子供を利用するなどというのは卑劣だろう。真奈江自身が痛い思いをするのではないものの、免罪符にならない。同時に、現に手がかりがある以上は放っておく選択肢などなかった。

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