十四、カツ丼からかすかな本音 二
それで、お茶をだす代わりに会社をでた。場所はあらかじめ決まっていた。『富竹』だ。以前、正と二人で食べた豚カツ屋さんで、検見さんも承諾して決まった。
いざ到着して、さりげなく井部の表情を盗み見た。初めてくる可能性もあり、このなんともいえないお店の構えをどう捉えるか気になった。無言無表情のようでいて、唇の左端がわずかにひきつって肩を震わせている。あの、知的で沈着冷静な彼女がゲラゲラ笑うのを必死に堪えている。なぜかしてやったりという気持ちになった。さすがに、わざとらしく具合を聞くのは悪趣味なので控えた。
店内に入って注文を取るまで、井部のケイレンは続いた。私が注意深く観察しているからわかったことであって、正も検見さんも特に気にしている様子はない。感染症対策で、座席が二人ずつ向かい合う要領で案内されてもそれは変わらなかった。
いざ注文という段になって、検見さんはもちろん部下達にも自由気ままに好きなものを選んでよいと強調した。こういうときに、上司に合わせて食事を選ぶような人間はAI時代を生き延びられない。
私は鹿児島産ヒレカツ丼。ケチャップつきで。検見さんはフランス産ポークソテー定食、正はフランス産ロースカツ定食、井部は鹿児島産豚バラ野菜炒め定食となった。
「皆さん。改めまして、私のためにここまで礼を尽くしてくださり本当に感謝の言葉もありません」
検見さんが改めて頭を下げ、井部も含む全員が居ずまいを正した。
「あと、実はここ……私が一番気に入っているお店でして。その意味でもお礼を申し上げます」
最後のくだりは冗談めかして締めくくった。そういえば、この前はかすかに土の香りがしたのを思いだした。恐らくは検見さんの『残り香』なのだろう。ここで指摘するような話でもなし、黙っておいた。私もこの店を好きになれそうだ。
お料理が次々に運ばれてきて、自然と和やかな心がいき交った。四人で『頂きます』を唱和し箸を手にする。
まずはケチャップなしで店の味を舌に含ませた。卵で閉じられたヒレカツが、しっとりした質感と豚肉ならではの旨味が口の中で調和する。飲みこむのが惜しいくらいだ。
「ここはもちろん豚肉が素晴らしくいいんですが、野菜もいいんですよ」
もやしの炒め物を箸でつまんで、検見さんは上機嫌に説明した。
「野菜にお詳しいんですね」
正が如才なく間接的に話を促した。
「いやあ、お恥ずかしい話……本業ではなかなか収入にならないもので。近所のスーパーでアルバイトをしていましてね。生鮮食品コーナーです」
「それは大変ですね。いつも上品なお客様ばかりでもないでしょう」
井部も話に加わった。
「大事な会食中になんですが、この前も一つありまして。大根をお買い上げになられたお客さんが、大層な剣幕で……。葉っぱに穴が開いてるのは不良品じゃないか、返金しろと五分ぐらい粘られましたよ」
未だにそんな人間がいるのか。呆れるというより逆の意味で好奇心が駆りたてられた。
減農薬や有機農法では、むしろ虫がかじるのは当たり前だろう。ナメクジでも葉についたままだったら多少は理解できるものの、どうせ大根の葉っぱをわざわざ食べるような人間なんてそうはいないのだし。仮に虫食いがあったとしても、洗えばすむ話だ。
「それで結局どうなったんです?」
正も無関心ではいられないようだ。
「私の一存では決めかねますので、と押し問答をしていたらたまたま別個にお客様がこられて……」
そこで検見さんは言葉を区切って、コップの水を一口飲んだ。
「その新しいお客様が、スマホで生鮮食品のよくある苦情集を検索したんです。それから、苦情を仰っていられるお客さんにつきつけましてね。そうしたら黙って回れ右されましたよ」
「それは痛快ですね。だいたい、自分より立場の弱そうな人間に食ってかかるなんてろくな人間じゃないですよ」
井部が珍しく雄弁になった。
「ありがとうございます。正直、余り相手にしたくないですね……まあ、夫のために郷土料理を作りたいから完璧を期したかったそうです」
夫とやらの方は、どうせ大根の葉に穴が云々なんて想像もしないだろう。なんなら黙っておいてもいいのに。病的に細かい人間のようだ。
郷土料理に大根が入るのは、日本全国どこでも当たり前だ。にもかかわらず、奇妙な懐かしさを感じた。ケチャップを豚カツに少しだけかけながら。
県庁時代、日本食生活協会の写真集を作成したことがある。元は戦後の食糧不足を解決するために都道府県の保健所が栄養教室を開いたのが始まりで、昭和三十四年には当時の厚生省が「栄養および食生活改善実施地区組織の育成について」という文書を通達した。平成十七年には食育基本法が制定されている。
協会のメンバーは食生活改善推進員……普段は単に推進員と呼ばれ、基本的には無給で県や市町村の事業に協力する。その中に各地の郷土料理展もあった。私が作ったのは、郷土料理写真集だ。
どれも工夫を凝らしていて素晴らしく美味しそうだった。調理にいそしむ推進員の人達もいきいきしている。
施設育ちの私には、そうした土台がない。施設のある土地が故郷と見なせなくはないにしても、『本当の』故郷にこだわる気持ちも否定しきられない。ひょっとしたら、自分が作る資料の中にそれがあるかも知れなかった。
部下達と打ち解けてくつろぐ検見さんを眺めながら、私は豚カツの最後の一切れを頬張った。
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