二十一、虚々実々の天津飯 一

 翌朝。井部は出勤してこなかった。


「また江原じゃないだろうな」


 自分の席で腕組みしながら、正が顔をしかめる。


「なにかあったの?」


 質問とは裏腹に、ある程度は知っている。


「今度は俺につきまとってきたよ。どこで事故ったのか知らんが、包帯だらけだったな」


 正は事実を打ち明けた。どうでもいいけど、人目がないとはいえ社長と部下の会話ではなくなっている。


「井部さんについて聞いてきたの?」

「いいや。相手にしないで聞き流したよ」

「井部さん、事故か病気かわからないね。こっちのパソコンからメールだけ送っておく。今日いっぱい待って返信がなかったら警察に連絡しないと」

「わかった。だが、井部さんの業務はどうする?」


 会社では、井部はカウンセリングを担当している。簡単に交代できる業務ではない。


「『担当者研修のためしばらくお休みします』とでもホームページに告知して」

「了解」


 井部に限らず、この三人のだれが抜けてもエンジェルズベルは空中分解する。それは絶対に避けねばならない。同時に、井部が『壁』絡みで誘拐されたかどうかもなんとかして突き詰めねばならない。


 その反面、井部がいなくとも処理すべき業務は山ほどある。午前中はそれで終わった。


 お昼は、示し合わせたかのように別々になった。そういうところは普段と変わらない。


 豪華なお料理を食べる気にはとてもならない。会社の近所にあるコンビニへいき、電子レンジで温める要領の天津飯を買った。温かいお茶も忘れずに買った。


 感染症にもかかわらず飲食コーナーは満席に近かった。潰れるお店も現れ始めて、受け皿が減ったのだろう。空いているテーブルを適当に選び、早速食べ始めた。


 つい最近知ったばかりの話だけれど、天津飯というのは日本生まれの中華料理ということだ。つまり、中国にはそもそも天津飯という料理はない。大半の中国人は、寛大にも美味しければいいという感覚で気に入ってくれている。むしろ、自分たちの文化に対する敬意と肯定的に解釈してくれている。


 国籍や国境にこだわるつもりはない。ただ、自分の思いこみが一つ解消されたという意味でも嬉しかった。


 それにしても、赤いケチャップの入った黄色い蟹玉がご飯にかけられているというだけでワクワクするのはなぜだろう。これから思いきり口と腹を満たす行為が待ち受けているからだろうか。


 街角の中華料理屋さんに比べると、コンビニの天津飯は甘酢だれの勢いが少し強い。ふんわりした蟹の食感といい、控えめだけれどしっかり存在感を主張するケチャップの酸味といい……。手軽に食べられてこの味という点では、甲乙つけがたい。


「失礼、ここいいです?」


 湿布や消毒薬の臭いと共に、不快そのものの声音が背中から投げつけられた。


 幸か不幸か、あらかた食べ終わった後だった。そうでなければ食べかけの天津飯を投げつけていたろう。


 私が無視したのを気にも留めず、江原は持参した缶コーヒーを手元に置いて真向かいの席に座った。なるほど、ずっと包帯姿だ。それ以前に、相変わらずぼさぼさの長髪とだらしない服装をしている。


「井部さんのこと、知りたくありません? おっと、私は無関係です。あくまで自力取材して得た情報ですよ」

「それにしてはずいぶんと早い入手ぶりですね」


 皮肉をこめた言葉を突き刺しつつ、私は食べ終えたあとのゴミをまとめた。ついでにこいつも捨ててしまいたい。


「お宅のルーツにもかかわる話なんですがね、他所で公表しましょうか?」


 薄笑いを浮かべる江原を前に、バッグからスマホをだして百十番をかけ始めた。


「両方とも蒲池家にかかわるんですよ」


 最後のゼロを押す前に指が止まった。江原が蒲池家にあることないこと吹きこむと、個人的な調査どころではなくなる。


「あなたを警察に突きださずにすむお話なら伺いましょう」

「そうこなくっちゃ。こっちも商売ですから、それなりの対価を頂戴しますがね。おっと、金銭じゃありません。というより、卑俗な損得勘定じゃないんで」


 先回りして、江原は私の反論を封じた。


「『金杖』。不倫専門の復讐屋、知らないはずがないですよね? この街で事故が起きる度に、大なり小なりエンジェルズベルがかかわってるんですよ」


 第三者からしたら、突拍子もない話の羅列だ。わざとカマをかけているのが見え見え。


「いい加減に……」

「正確には、エンジェルズベルで登録したあと、別れたり離婚したりしたカップルがかかわってるんです」

「だから?」

「井部さん、カウンセリングやってますよね。エンジェルズベルのアフターサービスには、結婚詐欺対策だの浮気相談だのがあります」


 そこで、江原は缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲んだ。


「つまり、『金杖』と手を組んで被害者に復讐をあっせんしているんじゃありませんか?」

「その缶コーヒー、よく売れていて私もたまに飲みます。でも、あなたが手にするのは意外ですね」


 あえて全く無関係に思える話を、私は切りだした。


「へえ、なんの関係があるんです?」

「『金杖』もよく使うんですよ、毒入りのを。ちょっと確かめていいですか?」


 露骨に顔をしかめてから、江原は黙って缶を渡した。手にしたそれを軽くふってから、中身を天津飯の空き容器につぐ。


「おい、なにしや……」

「あらあら、一口飲んだだけなのにあっという間になくなりましたね。ずいぶんとケチ臭い製品ですこと」

「……」

「もちろん、残りのスペースには録音機が仕込んであるんですよね? 録音しないからオフレコだ、身体検査しても構わないとかいって」

「予想以上に手強いな。その通りだよ」


 あっさりと江原は敗北を認めた。これだけでも江原を警察に突きだす十分な証拠になる。


「騙そうとしたのは悪かった。俺の話を聞いてくれ……頼む」


 江原が目の前で頭を下げた。


「警察がくるまでなら」


 私は再びスマホの電話画面をつつき始めた。


「県庁の蒲池総務部長は、俺の親の仇なんだ」

「それで?」


 速やかにボタンを押すつもりが、間違って電話帳を呼びだしてしまった。

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