二十一、虚々実々の天津飯 二

 以前、江原が井部につきまとっていたときに警察から教えられた連絡先を無意識に呼びだそうとしていた。


「なんとかして、あいつが失脚するネタを探していたらあんたに突き当たった。あんた、正職員になり損なったろ? あれは蒲池部長の差し金だ」


 中途半端に表示されたスマホの電話帳を、私は見詰めた。


「あんたに事実を知らせて共同戦線を作るための下調べで、エンジェルズベルを洗った。宇土主任が浮気していたのは、蒲池家の嫁さ」


 嫁という昭和風の呼び方に、関係ないところでかちんときた。ここで感情をむきだしにするのは愚の骨頂。我慢忍耐。


「詳しく知る前に、宇土主任はクビになった。そして事故った。ただの偶然か? タイミングがよすぎやしないか? 疑って調べるのが俺の仕事だ」

「それでどうやって『金杖』なるだれかを知ったの?」

「簡単だ。宇土の奥さんに聞いた。最初は知らんふりをしていたが、裁判沙汰を持ちだして脅したらあっさり白状したぜ。『壁』についてもな」


 どうやら、ごまかしきれないところにさしかかりつつある。


「いいでしょう。この缶コーヒーをこちらで好きなだけ預かるという条件でなら、私の知っていることを打ち明けます」


 これは、江原の急所を掴んだということだ。断っても勝手に没収して警察を呼べばいい。


「それが落としところだな。じゃあ、頼むよ」

「知りません」

「はあっ?」

「知らないという事実を答えて差し上げました」

「このっ、ふざけ……」

「代わりに私の知る事実を教えます」


 テーブルに叩きつけられようとしていた江原の両拳が空中で止まった。


 引中さんの話……そして、井部の中絶まで。『壁』や『金杖』にかかわりのない部分は全て簡潔に伝えた。


「俺の推察通りなら、蒲池家は親子二代で不倫した可能性があるな」


 野良犬ジャーナリストは、いつの間にか狼めいた眼光を放っていた。必要な情報がそろったら人格が変わるタイプなのだろう。


「どうしてそう思うの?」

「まず、あんた。あんたが正職員になり損なったのは、施設云々だけじゃない。蒲池は、最初からあんたが自分の娘って知ってたから遠ざけたんだ。古傷そのものだからな」

「自分のって……」

「真奈江って女の子から遺伝子を入手すれば白黒つくだろ? そして、井部。あいつは、蒲池家の息子に監禁されてる」

「どうして?」

「井部がつきあっていたのがそいつだからさ。もっとも、息子がストーカーになったんじゃない。その逆だ」


 動機が中絶にあるのは簡単に把握できる。


「井部は、ずいぶん前から蒲池家の周りをうろちょろしてた。素人にしちゃよくやってるが、俺も蒲池家を張っていてな。あいつはやりすぎた。逆に蒲池家の息子に隙を狙われて、頭を殴られて車に押しこまれたんだよ」


 それが、あのおかしなメールの真相か。


「息子って……だれですか?」

「はじめ。蒲池 始だよ。外資系企業のやり手営業員だけど、親とはそれほどうまくいってない節がある」

「なら、すぐにでも……」

「警察が家にきても、知らぬ存ぜぬで終わりだよ。ろくに目撃者もいない。証拠がなきゃ踏みこめない。俺はご承知の通りに警察から睨まれてるし」

「それで、私とは利害が一致するから蒲池家に乗りこむ足場にしたいというの?」

「話が早くて助かるね。あんた、陶芸教室なんかでそれなりに面識あるんだろ? 真奈江って孫の遺伝子を入手したら段取りがたつぜ」


 こちらの思案と歩調が合ってしまうのが気持ち悪い。なおかつそれが有益なのも癪に触る。


 やるしかない。


「それはそれとして、どうしてそこまで蒲池家にこだわるの?」

「言ったろ、親の仇って。ほれ、目の前の山にゴルフ場があるだろ」


 ここの市民ならだれでも知っている。


「あそこの山林、俺ん家が所有してたんだ。もう三十年くらい前かな。ゴルフ場を造るために、暴力団と手を組んだ蒲池が書類を偽造して登記をかえやがった」


 彼の顔からにじみでる屈辱と憎悪に、私は思わず彼から預かった缶コーヒーを握りしめた。


「親父は林家で、森林組合で働く真面目な人間だったよ。土地を奪われたショックで首を吊った。お袋は山をでてこの街で働きながら俺を育てて、過労がたたって死んだ」


 江原がでたらめをいっているとはとても思えなかった。それこそ、素人でも調べたらある程度はわかることだ。なにより、井部の失踪に絡んだ話で嘘をついたら彼自身が破滅するに決まっている。


「缶コーヒーはずっと預かったままにしておきます。連絡先だけ教えて下さい」

「商談成立だな。真奈江の遺伝子を採取したらすぐ知らせてくれ。金はかかるがすぐに調べてくれる業者を知ってる。あんたのも一緒に送らないと意味がないからそのつもりでな。あと、費用はそっちにだしてもらうぜ」

「いくらくらいですか?」


 江原の示した金額は、高くはあるが払えないほどではなかった。


「それで承諾しました」


 こういうときにお金をだし惜しむのは愚か者のすることだ。


 江原は席をたった。彼の背中が消え、湿布の臭いが収まってから急に周囲の喧騒がのしかかってきた。

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