二十二、小さな令嬢にケチャップチーズ 一
コンビニをでて、帰社する道すがら。
あれこれ考えた。おそらく井部は、『アスファルト』としての仕事とは全く別に蒲池家に張りつき続けていたのだろう。どんな形で先方が気づいたのかはさておき、彼女の方から一定レベル以上の圧力をかけたことはまず間違いない。追い詰められた蒲池家の息子が、強硬手段を取るところまで計算していた可能性が高い。たぶん、それは彼女なりの無理心中なのだろう。
それを放置していては、私や正まで身の破滅だ。そうした社会人としての立場も当然ある。もう一つ。今更ながら、井部はかけがえのない社員だ。私個人としても、もっとまっとうな手段で蒲池家を訴えるなり心の整理をつけるなりしてほしい。むろん、そこまで酷い事態に至らしめたのは蒲池家の側に……正確には息子に……大きな責任があるのだけれど。
いずれにせよ、一刻も早く井部を救出せねばならない。そのためには、真奈江の遺伝子を入手せねばならない。
とはいえ、そうそう都合よく彼女と接触できるわけではない。こんな異常な事態になれば、小さな女の子を簡単に家からだしたりはしないだろう。なんなら学校の登下校さえ、親が自分の車に乗せている可能性すらある。
「野菜のお姉さんだ!」
無邪気で可愛らしい女の子の声が、私の足を止めさせた。まさに当人が目の前にいる。
「蒲池さん、こんにちは」
少ししゃがんで、目線を相手に合わせてから私はお辞儀した。
「こんにちは」
真奈江は律儀に頭を下げた。
「学校は?」
「病気が広がるといけないからお休みにするって」
「またお使い?」
「うううん、違うよ。家がうるさいから一人で出てきた」
「うるさい?」
「パパがね、ママがよその男の人と一緒にいたから怒ってる」
そんな話を彼女にするなんて、どういう神経だ。
「あんまりお声が大きいから、壁越しに聞こえちゃった」
あっけらかんと、可憐なスパイは手際を披露した。
「だからってあなたがでていくことはないじゃない」
ついとがめるような口調になった。
「うんとね、おじいちゃん本当は私のことそんなに好きじゃないんだって」
のんびりとすらいえる口調で、彼女はまた別の衝撃的な事実を明かした。
「どうして?」
「男の子の孫が欲しいから」
予想していたよりはずっと穏便な内容ではある。だからといって、笑ってすませるような話でもない。
「おじいちゃんから本当にそう言われたの?」
私の質問に彼女は小さく首を縦に傾げた。
「お前が男だったら、もっと色々なところに連れていったり教えてやったりするんだけどなっていってるよ」
あの部長なら、その程度のことは口にしかねない。
ともかく、降って湧いたこの好機は絶対逃せない。
「暗くなるまでには帰らなくちゃね」
わざと本心とは反対のことを持ちかけた。
「また怒鳴り合いが続いてたらいやだな」
大人でもそれはいやだ。
「自分のスマホがあるなら、電話がかかってくるんじゃないの?」
「お部屋に置いてきた」
これは中々に本格的だ。などとのんびり構えていい状況じゃない。
「だったら、私の会社にきて少し考えてみる?」
おくびにも下心をださないように注意しつつ聞いた。
「うん、いいよ」
全くもって人を疑うことを知らない、清らかな笑顔に顔をそむけそうになる。
とにかく、これで最初の段階は乗り越えた。会社の休憩室に真奈江を案内した段階で、ぎりぎりお昼が終わっていた。
「ここで、少しの間いい子にしていてね」
真奈江は黙ってうなずき、私が勧めるままにパイプ椅子に腰かけた。
正が使っていたのか、暖房は切られていたのに部屋は暖かい。改めて暖房のスイッチをつけて、自分の席に帰った。バッグも肩から外さないままパソコンの未読メールに素早く目を通し、井部からの返信はないと知る。
正はもう帰っていて、仕事を再開していた。
「ちょっと来客があるの。細かい説明はあとでする。休憩室にいるから」
「ああ」
正がうなずくのももどかしく、給湯スペースの冷蔵庫を開けた。チーズとケチャップしかない。チーズは、円形の容器に入っていて六等分されていた。一つずつ手でアルミ製の包装を外し、味見する。たいしてクセはないので、真奈江にもとっつきやすいはず。それから食器棚から小さなお皿とフォークを二つずつだして、お盆に乗せた。お茶のペットボトル一本に青紫色をしたコップ二つも追加。
それらを休憩室に運ぶと、真奈江はお行儀よく膝の上に両手をそろえて座っていた。お盆を片手にしつつ、ドアをうしろ手で閉めた。
「お待たせ。いい子にしてくれていたから、ご褒美におやつを上げる」
「やったー!」
「でも、最近悪い病気が流行っているよね? おやつの前に、どうしても簡単な検査をしておく必要があるの。痛くないし、すぐ終わるから助けてくれない?」
「うん」
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