二十三、一同で鴨肉のロース煮 四
真奈江はしょげたままだが、同じ意気消沈でも邦子達のそれと大違いだ。本当の意味で家族を心配しているのは真奈江だけで、あとは保身が見え見え。
「いくらだ。いくら欲しいんだ」
あの妻にしてこの夫あり。ため息をつきたくなる。
「お金じゃないんですよ。少なくとも私は。真実を語って欲しいんです」
それは私の真意だった。一同の注目を浴び続け、宏はついに肩を落とした。
「邦子、茶を……」
「お爺ちゃん、お腹空いた」
なんともシビアな真奈江の台詞に、全員がズルッと脱力した。
「あとにしなさい」
面倒くさげに宏は命じた。
「いえ、この際ですから協力し合って作ろうじゃありませんか。幸い、大きな台所ですし」
私の提案に、それこそ全員が呆然とした。
「もちろん、井部さんは休んでいてください」
「いいえ、もしそうするなら私もぜひ加わりたいです」
始を横目で見ながら井部は明言した。
「どこまでも図々しいやつだなお前は」
「ご自分を棚に上げないほうがいいでしょう。これでもかなり寛大な提案ですけど」
苦々しく吐き捨てた宏に、私は遠慮なく立場というものを思い知らせてやった。
「それはそれとして、なにを作るんだ?」
毒気を抜かれつつも、江原は的確な質問をした。
「さすがに買いだしにいくのもなんだし、冷蔵庫の中身によりけりですね」
これは同時に、一切の経費は蒲池家で負担してもらうという話でもある。こちらのだした寛大な条件からすれば、喜んで受けるのが当たり前というものだ。
「あなた……」
すがるように、邦子は問いかけた。
「ありあわせのもので構わんから適当に作れ」
吐き捨てるように宏は言った。
「あなたも私達に加わるんですよ」
情け容赦なく私は指摘した。
「なんだと?」
「いろんな施設に、サンタクロースとしてボランティアでお顔をだしていらっしゃいますよね? 今時のサンタクロースは、自分で調理や洗濯なんかできて当たり前です」
嫌味たっぷりの私の主張に宏は黙りこんだ。
「鴨肉がまとまったストックであるのと、あとはお野菜くらいです」
邦子の説明は、ほとんど敗北宣言に等しかった。
「真奈江さんは自由にしてね。これから作業を割り当てます。まず、皆さん手を洗って消毒して下さい」
メニューは鴨肉のロース煮、手作りトマトソース添えとサラダ。もちろんご飯も。
正と井部はサラダ係、江原は炊飯係。宏と邦子と始はトマトソース作成係。陽子は鴨肉の下ごしらえ係。私は監督、レシピもあらかじめ紙に書いて各自に渡した。
蒲池家の台所は、まさにこうした人数をそろえて作業を割り当てるために存在していた。逆にいうと、新築以来彼らはこの台所を本来の意味で使いこなしてはいなかった。
真っ先に江原が分担を終えた。米を研いで炊飯器にセットするだけだから簡単だろう。それで、陽子の助手に回ってもらった。
サラダは順調に進んでいる。正は井部を気遣いながら包丁をふるっているし、井部は憑き物が落ちたような顔で野菜をさばいた。
一番苦戦しているのはトマトソースだ。そうなるのはわかっていた。宏は干物をオートグリルで焼くことさえできない人間だ。
「あなた、トマトを潰さずに切って下さい」
「うるさい! いきなり……うわっ!」
フライパンをだそうとした始が宏にぶつかった。フライパンは甲高い音をたてて床に転がった。
「ごめん、父さん!」
「トマトがまな板からこぼれたじゃないか!」
でだしからそんな調子だ。一つの持ち場に人数が増えるほど、動線を意識しないといけない。他人同士の江原と陽子の方がよほどスムーズだった。
「あなた、トマトは洗い直して下さいな」
「わかってる!」
「お姉さん、お爺ちゃん達手伝っていい?」
真奈江がようやく顔を上げた。全員が手を止めた。
「もちろん。助かる」
真奈江の小さな身体が食堂から台所へと移るのは、なにかアイドルスターが花道を歩くような雰囲気があった。
「お爺ちゃん、あたしがお婆ちゃんと一緒にトマトと玉ネギを切るから、パパと一緒にフライパンで炒めて」
「わ、わかった」
蒲池家の男衆が、そろって真奈江の手際に注目した。まだあやふやな手つきながら、彼女はトマトをざく切りにしていった。宏よりはるかに整った形だ。
「今の内にフライパンにオリーブオイルを引いて温めて」
大人顔負けの指示を発した真奈江に、二人の男衆はすぐ従った。
トマトと玉ネギを切り終わると、始がまず玉ネギを炒めた。焦がさないようかき混ぜながら熱を加えねばならないが、邦子の助言でどうにかやり遂げた。
次に、トマトと水を加え、頃合いを計ってコンソメも追加する。それらは宏が邦子から教えられて戸棚からだした。
フライパンの中が凝縮され、火を止めたときにはサラダが完成して鴨肉の下ごしらえが終わっていた。
「皆さんお疲れ様でした。主菜は私が最後の仕上げをします。フライパンはトマトソースを深皿に移して、あとはそのままに。サラダを食卓に運んでから少し休んでいて下さい」
やはり、最大のご馳走は私が仕上げねばならない。
一人だけ残った私を、食堂から全員が注目した。そんな体験は生まれて初めて。まして、ここまで異様な状況が重なるとは。
新しい鍋をだした私は、水と調理用酒を注いで加熱し始めた。時間差を利用して、下ごしらえのすんだ鴨肉をフライパンで焼き始める。このとき皮でない面は天井に向けておく。
皮が焼き上がったら、鍋の中身が沸騰したのを確かめてから入れて煮る。火を弱めて蓋をするのを忘れてはならない。
グツグツ泡だつかすかな音を聞きながら、ふと食堂に振り返った。一同が並んで私を見守り続けている。
そうか。私が無意識に求め続けていたのは、並んで座ることだったのか。正確には、並んで座ってお皿を隣り合わせることだったのか。向かい合うお皿はいくらでも経験した。これからもそうだろう。でも、施設をでてからこの方、正とさえ隣り合ったことはない。だから私は施設に寄付を続けていたんだ。隣のない皿から間接的にでも遠ざかろうとして。
鍋に向き直った私は、涙ぐんでいた。まだ宏から真相も聞いてない。メソメソしている暇はない。
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