二十三、一同で鴨肉のロース煮 五

 鍋が煮え、蓋を開けてからトマトソースをかけ醤油を垂らした。たまらなくいい香りが昇り、コンロのスイッチを切った。


 手押しワゴンに蓋をした鍋を移し、お玉に人数分の深皿とスプーンにフォークを添えて食卓まで運ぶ。


「お待たせしました。皆さん、ご飯も炊けましたから炊飯器で順番によそって下さい。それがいき渡ったら主菜をわけます」


 一同が席をでて、その通りに実行した。


「主菜をどうぞ。鴨肉のロース煮、手作りトマトソース風味です」


 改めて蓋を開けると、誇らしげに湯気が湧いた。一人一人の傍らにワゴンを押していき、お玉で深皿によそった。


 一番最後に自分のお皿とご飯を自ら構え、私は宏の隣に座った。有無は言わせない。


「お疲れ様です。では、皆さん頂きましょう」

「頂きます」


 陰惨な口論が続いたあとだけに、いかにも嬉しそうな響きが食堂を震わせた。


 宏以外の蒲池家一同は……真奈江がまた別個なのは当たり前として……もう気づいているだろう。こんな事態が泥沼化してもなんの意義も益にもならないと。だから、さっさと和解してなかったことにするのがまだしもましなのだ。こちら側でも、井部でさえ争い続ける愚かさを噛み締めているのが手に取るようにわかる。


 あとは宏が全ての責任を認めて真相を明かし、謝罪すれば完璧だ。だれもがそう考えている。にもかかわらず、その見こみはたいして強くない。認めたが最後、宏の政界進出は頓挫する。良心だの羞恥心だのの問題ではない。家族も部外者もいる以上、だれの口からどう秘密が漏れるかわからない。宏のような手合いは最後まで人間を信じようとしない。


 実際、江原は一連の事実をまとめて出版するだろう。ペンは剣よりも強しとはよくいったものだ。宏が殊勝な態度を示せば個人を特定できないようにするだろうが……。


 では、あくまで突っぱねたら。もはや全面戦争あるのみ。真奈江すら関係なくなる。和解を拒絶したのは先方なのだから。


「引中家に二つの系統があったのは事実だ」


 サラダを食べ終えてから、ゆっくりと宏は口にした。


「当時、高校卒業を間近にした邦子は暴力団の家系から逃れたがっていた。相手が私でなくとも、堅気ならだれでもよかった。たまたま私が県庁の人間だったから、邦子の両親は私と邦子の交際を認める代わりに利権の手伝いをさせた」


 江原が、かちゃりと音をたてて左手のスプーンをお皿に置いた。右手にはフォークが握られたまま。


「当時の私は新卒で、それなりの大学をでて自分の才覚になんの疑問も持っていなかった。まだ学生だった邦子が妊娠しても、逆算すれば腹が目だつのは卒業したあとだからとタカをくくっていた」


 邦子は食べるのを止め、懐紙で口元をぬぐうふりをして涙を我慢している。


「江原家の土地を奪ってから、それ自体が原因になって陰に陽に私は協力させられた。毎日が自己嫌悪とストレスの塊だった。そんなとき、邦子の従姉妹で同い年の女性と知り合った。反社でない方の引中家で、名前は華代」


 私は、持ち上げかけたスプーンが顔の前で水平になったまま先を待った。華代、それが私の……?


「彼女は手料理が得意で、邦子にもよく手ほどきしていた。母親が……つまりは邦子の伯母になるが、食生活改善推進員だからでもあった。特にトマト料理を好んだ」


 もはやだれも食事をしていない。


「久保社長の示したトマトソースのレシピは、まさに華代が作成したものだ。しかし、邦子は始を育てるのに必死だし私は自分のことしか考えていなかった。そんな私を、邦子の従姉妹……華代は受け入れ、包んでくれた」


 私のルーツが、ようやく明かされる。一言も聞き漏らしたくない一方、耳を塞ぎたくもなった。


「交際が十年ほど続き、ついに華代は私の子を妊娠した。彼女は親族全員から中絶を要求されたが、頑として拒み家出した。それからは行方不明だ。私も手を尽くして探しはした。エンジェルズベルで離乳食のレシピ特集が始まったと邦子から聞いたとき、まさかとは思っていた」


 ふーっとため息をついて、宏はコップの水を飲んだ。


「やっとわかりました」


 口元をぬぐい終えた邦子が、宏へと顔を曲げた。


「あなたが人の信頼を踏みにじって知らん顔をしていたのが」

「そうだ」


 邦子の糾弾を、宏は淡々と認めた。


「華代さんの話が持ちだせないからといって、問題をすり替えていたんですね?」

「半分はそうだ。どのみち男孫が欲しかったのは事実だ」


 陽子の追及にも、もはや隠しようがない。


「じゃあ、俺のこともいらないやつだと思ってたのか? 少なくとも華代さんとかいう人の子に比べて?」

「途中からはそうだ」


 途中、とは華代と深い仲になってからのことなのだろう。


 もはや、宏は蒲池家の当主ではなくなった。その構成員が全て、彼を見限ったのは表情からも明らかだった。


「お爺ちゃん、みんなに謝るといいよ」


 例外が一人いた。核心を突く発言を決めた真奈江は、美味しそうに鴨肉を頬張った。


「久保社長、江原氏、井部氏、蒲池家のみんな、まことに申し訳ありませんでした。全て、あらゆる意味において、私の不徳と致すところです」


 両手を膝に据え、席上で深々と宏は頭を下げた。昭和から平成をまたいで、令和まで続いた家父長主義の残骸はここに崩壊した。


「頭を上げて下さい」


 宏の隣で、静かに私は声をかけた。


「これで私と弊社からの恩讐は全て完結と致します。一同、よろしいですね?」

「異議なしです」


 井部が即答し、数秒静寂が続いた。


「右に同じ」


 正がぼそっと口にした。


「俺は別だぜ。まあ、謝罪は聞いたから手加減するが、真実を世間に放ってやる」


 江原の宣言はもっともだろう。


「ご随意に」


 宏はそれだけ答えた。


「さ、お料理が冷めます。食事を続けましょう。あと、真奈江さん」


 本日一番の英雄に、私は呼びかけた。


「なあに?」

「ありがとう」


 いつの間にか、私は泣いていた。真奈江以外の全員が、泣きながら鴨肉を食べた。


 母から受け継いだレシピを役だてて、作った料理を父や恋人や腹違いの兄と共に食べる。柔らかくて堅くて、酸っぱくて苦くて甘くて、なんて複雑な味だろう。

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