十、おでんを二重に辛く 二

 資料から、とうに四十七歳だと知ってはいた。首から下は悪い意味での四十代で、逆は逆。そんな観察をするのは、私がエンジェルズベルのような会社を経営しているからだろう。ほとんどの人間からすれば、検見さんはただのおっさんに過ぎない。駒瀬とは別の意味でもったいない。


「ようこそおいで下さいました。私が社長の久保です」

「カウンセリング担当の井部です」

「お客様データ管理の相川です」


 本音はおくびにもださず、私は二人の部下と共に席からたって返礼した。


「早速ですが、模擬演習の会場にご案内致します」


 私はそのまま検見さんのいる戸口へ歩いた。部下達があとに続く。


「はい、ありがとうございます」


 あらかじめ、休憩室に簡単な作業をほどこして準備してある。暖房も申し分ない。室内には長机二つを離して並べ、一方は検見さん、もう一方は井部が向かい合って座った。検見さんの席にはマニュアルを添えたパソコンが構えてあり、カメラとマイクもテストずみ。


 マニュアルは、正味三十分の初心者講習を想定してある。中身はパソコン操作用と講義そのものの脚本の二つに別れていた。検見さんに予習してもらうよう、あらかじめ現物をメール送信してある。


 生徒役の井部は、会社が支給するスマホを使う。もちろん、SNSの無料通話サービスに接続する。私は目だたないよう部屋の隅に引っこみ、正は三脚つきのデジカメをセットした。


「それでは、初めて下さい」


 私が声をかけると、検見さんはパソコンのスイッチを入れた。


「皆さん今日は。検見オンライン陶芸教室の講師、検見です」


 マニュアルを懇切丁寧に作っておいたこともあり、通話はすんなりつながった。講義の進行も滞りない。専門家というだけでなく、検見さんはとても穏やかで落ちついた教え方をするのがすぐ理解できた。


 もっとも、簡単な座学をしただけで本格的な陶器の作成には至ってない。こういうのにも先達がいて、私や部下達もある程度は要領を学んではいた。それでも、いざ実行となると手探りになるのは仕方ない。受講者の資料に使う漢字の一文字から興味を引いて貰えそうな器の紹介まで、綿密に打ち合わせをして何回でも模擬演習をせねばならない。しかも、経費はこちら持ち。検見さんが自転車で自宅とここを往復できるので、交通費がかからないのはありがたかった。


「以上で本日の講義を終了します。お疲れ様でした」

「ありがとうございます」


 模擬師弟が互いに頭を下げ、一連が終わった。


「お疲れ様です」


 私が一歩進んで労うと、正が部屋をでた。すぐに、四本のお茶のペットボトルをお盆に載せて帰ってくる。これは最初から予定しておいた話だ。暖房の効いた部屋でまとまった時間をかけて話をしたのだから、冷たいお茶でも問題ないと判断してのことだった。


「ありがとうございます。マニュアルが丁寧なお陰で助かりましたよ」


 模擬演習と同じように、目尻を穏やかに下げながら検見さんは感謝した。正から最初にペットボトルを渡され、再び頭を下げた。


「恐れ入ります」


 心から暖かい気持ちになり、私も微笑んだ。二番目にペットボトルを受け取り栓を開ける。


「講義はとても楽しくてためになりました」


 井部が、三本目のお茶を手にしてから口を開いた。滅多に他人を誉めもけなしもしないのに、なんとも珍しい。


「そう仰って頂けるとやりがいがありますね」


「録画・録音ともにばっちりですよ」


 正も快活に請け負った


 それからは、正も含めて全員が一つの長机に集まりデジカメの再生動画を検討した。


 言葉を慎重に選びつつも、喋る速さから抑揚、肘の角度に至るまで私も部下二人も忌憚ない意見を述べた。私達のだれもが検見さんの半分くらいしか生きてないのに、一言も口を挟まず熱心にメモを取る姿には感心する他なかった。


 午前中には全ての予定を消化し、検見さんは何度も頭を下げながら帰った。これからは、講義の内容を細かく掘り下げながらスケジュールを決めねばならない。もちろん、本業をおろそかにするのは許されない。


 その日のお昼はファーストフードのハンバーガーでそそくさと終わらせ、午後いっぱいはほとんど一言も喋らずに仕事をした。そのかいあって、定時で引き上げられた。


 本当に久しぶりに、正と一緒に帰ることになった。同時に仕事が終わっても、どちらかが夕食のための買い物をするから結局は一人になる。二人で買い物をするのは楽しいし、同棲して最初はそうしていた。いつの間にか、自分だけの時間をより多く取るようになっていた。


 私からすれば、デートさながらの買い物も自分一人でじっくりやる買い物も同じくらい値打ちがある。だから、好きなときに好きなように切り替えられるつもりだ。


「今日はおでんか? 鍋に仕こんであったな」


 帰りの電車で、並んで吊り革を掴みながら正は目を細めた。


「駄目じゃない、覗いちゃ」


 叱るふりをしておどける私。


「すまん」


 笑いながら正は謝った。


「うふふ……具の少ない手抜きおでんだよ」

「経費節約だな。でも楽しみだ」


 電車が見慣れた高架橋を通り抜けた。ほんの一瞬、歩道と車道の境目に散らばったガラスやプラスチックの破片が夕暮れの薄まりつつある光に照らされた。赤や白のいびつで汚らしい反射がつい最近の交通事故を暗示している。そのとき、すぐ隣から漂うごくわずかな違和感に気づいた。正の手から金物のような臭いがする。錆びた手すりを触ってついたようなもので、普通は気づかない。


「どうかしたか?」


 正が横目で私を見た。


「なんでもない」


 気づいても無視するような程度に過ぎない。それで、私も簡単に忘れた。


 いつもの駅で電車を降り、しばらく歩いてアパートに帰った。


「ただいま」


 先に玄関をくぐった私が、無人の室内に向かっていった。


「お帰り」

「家に入ってないのにお帰りはおかしいでしょ」


 笑いながら振り向くと、正が苦笑しながらうしろ手にドアを閉めるところだった。


「ただいま」

「お帰り」


 靴を脱がないまま、玄関で正を迎えた。


 そこから夕食まではあっという間だった。なにしろ、適当によそって電子レンジで暖めたらおしまいだから。


「ソーセージにはやっぱり黒胡椒だよな」


 自分のお皿に、電動式の製粉機をかざしながら正は唇の両端を上に曲げた。


「カラシがあるのに、好きだよね」

「カラシはカラシで別にかけるんだ」


 もうなにもいうまい。私はケチャップを大根にかけた。野菜不足はこれで解消?


 どの食材にも思った通りに味が沁みていて、寒さが吹き飛ぶ美味しさだ。特に、こんにゃくはケチャップと意外に合う。前にもやったことがあり、こんにゃく独特の匂いがケチャップに打ち消されて両者の旨味だけが残る。


 鍋はあっという間に空になった。暖まったと思ってほっとしたら急に眠くなり、お風呂とストレッチをすませてさっさとベッドに潜りこんだ。

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