六、ビーフシチューは断罪の味 一

 ブリ照焼定食とピザトーストを平らげてから、会社に戻った。宇土の姿はない。新しく人を雇うまで、さすがにまとめ役が現場に不在というわけにはいかない。人件費が節約できるとでも思えばいいか。


 まずは、部下達と事実を共有しなければならない。


「二人とも、少しだけ時間を貸して下さい」


 宇土が使っていた机の前で、私は呼びかけた。やっぱり、こうしたことは顔を見て話しておきたかった。何故なら、私の表情から『も』私の訴えたいことを掴んで欲しいから。


「宇土主任は、本日正午を持ちまして懲戒免職となりました。その根拠は、既婚者であるにもかかわらず職務で知り合った利用客と不倫の関係にあったからです。本人に事情を聴取した上で、法律に則り手続きをしました」


 井部は無表情で、正は軽い衝撃を隠さなかった。


「こうした行為は私達の評判をとても下げてしまいます。免職に際し、一切の責任は宇土さんにあるということで合意に達しました。ですので、皆さんは安心して仕事に励んで下さい。それから、当面は私が宇土さんのしていた仕事を兼務する形でここに出勤します。浮気相手になった利用客は、私が詳細を調べた上で強制退会を検討します。以上です」


 淡々と告げること自体で、この件の区切りを図った。


 私がかつて宇土の物だった席につくと、二人も仕事に戻った。


 パソコンを起動し、データファイルを全て閲覧した。現状を把握し直さなければならない。


 宇土は、能力は別として一応は仕事をこなしていた。当たり前といえば当たり前か。不倫絡みのメールを職場のパソコンで交わすほど馬鹿でもない。


 まずは、寺浜……あるいは蒲池……陽子について。蒲池 陽子では登録がないとはっきりした。寺浜 陽子はある。住所は、『アスファルト』がもたらしたそれとは別だった。該当する住所の近辺をネットで調べ、一軒家を突き止めた。つまり、この住所そのものは正しい。既婚者だが旧姓と実家の住所を使っている可能性がある。


 エンジェルズベルの登録に使った身分証には自動車免許を用いてあり、有効期限も切れてない。なんらかの要領で独身時代の免許証を保っていた可能性はある。法律では、結婚に伴う免許証の変更手続きは速やかにとあるだけで期限を定めてはいない。罰則はあるものの、大人ならちょっと余計な出費がかかる程度だ。つまり、うっかり忘れていたとでも言い訳すればどうにかなる。


 そこからは『アスファルト』の出番だろう。


 宇土は、情報の優先順位を整理するのが稚拙だった。利用客への働きかけにも要領がある。とはいえ、宇土を雇用したのは他ならぬ私なのだから結局は私の責任でもあった。


 だれにとっても外出し辛い日々が続き、デートコースの設定もままならない。ならば、インターネットでできることをもっと強く模索する必要がある。


 まずは、オンラインデートの利便性を洗いだそう。


 できるだけ沢山の引きだしを見つけておきたかったから、午後いっぱいを使いきった。


「お疲れ様でした」


 口々に声をかけあい、定時で会社は空になった。


 正と同じ電車で帰ってもいい。井部は仕事以外で他人を詮索しないし。でも、今夜は私が料理を作る番だ。だから、自然と別方向になった。


 カクマート……会社の近くにあるスーパーは、それほど客が入ってなかった。経営に問題があるんじゃなくて、感染症が怖いのだろう。


 頭の中であれこれ料理を思い浮かべながら、適当に生鮮食品コーナーを歩く。


「国産牛ないですか?」


 小さな女の子の、マスク超しでもよく通る可愛らしい声が私の目を惹きつけた。こちらからは廊下を隔てて反対側になる、畜産品を並べた棚の前。小学一年か二年くらいだろうか。黒くて艶のある短めの髪に、手編みらしきモスグリーンのセーターがよく似合っていた。お使いにきたのだろう。


「はい、ここですよ」


 聞かれた店員はひょいと手を伸ばしてパックを一つだした。名札には『検見』とある。どこかで聞いた。


 パックを受け取った彼女は、二秒ほど見詰めた。


「部位が違います。私が欲しいのは、バラじゃなくてヒレです」

「ああ、失礼しました。じゃあこれをどうぞ」

「ありがとうございます」


 ぺこっと頭を下げる様子に、自然と和んだ。ヒレ肉。じゃあビーフシチューかな。


 女の子はその場を離れた。


 バラ肉を手にするべく廊下を横切ると、さっきの店員とすれ違った。そのとき、ほんのかすかに土の香りがした。それで、正がこの前打ち明けた売れない陶芸家だと思いだした。失礼ながら、赤いエプロンに緑色のポロシャツがどうにもぎこちない。マスクが浮いて見えるからなおさらだ。髭はそっているし髪は短くしているものの、今一つ清々しさを感じない。だからといって声をかけるのは馬鹿げている。そのままやり過ごした。


 食材を一通り買って、スーパーをでた。ここ数日では一番寒い。それこそ、暖かいビーフシチューでも食べたい。


 帰宅するまでに、『アスファルト』へ寺浜氏の真偽をつけるようメールで指示した。あとは、家で作って食べるだけ。


「ただいま」

「お疲れ」


 正への挨拶もそこそこに、すぐ料理に取りかかった。


「ねえ、ビーフシチュー作るけど胡椒どうする?」


 食卓でスマホをつついている正に、肩越しに振り返って尋ねた。


「うーん、そうだな」

「『うーん、そうだな』をかけるのね!」

「なんだそりゃ。あるわけねーだろ」

「だってそういったじゃない」

「あのな。……まあ、せっかくだし緑胡椒にしよう」


 緑胡椒はめったに使わない。胡椒は完熟すれば赤くなる。そうなるまでは緑色で、黒くなるまでは乾燥させないようにして保存する。あんまり正が力説するからネットで少し調べたら、かなり高い値段がついていてびっくりした。


「最後にかけるから、調理には使うなよ」


 正はすぐにつけ加えた。緑胡椒は繊細で、調理中に香りが飛ぶことがある。


「うん」


 うなずきながら、ニンジンや玉ネギを切った。それから鍋に牛脂を入れて加熱した。

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