五、トマトを貫くためにピザトースト 二
いつか私の首にも、ギロチンが落ちる日がくるかもしれない。いい子ぶってそうした運命を受けいれるつもりはなかった。ただ、心の中にいるもう一人の私は繰り返し繰り返しこうささやきかけている。『あなたも同じ……あなたも同じ……』と。
三つの椅子がガタガタと揺れた。その直後、長机が激しく音をたててずれた。
「す、すみません」
宇土が慌てて机の位置を直した。膝ががくがく震えているのが、傍目にも明らかだった。うなずく気にもなれず、そのまま眺めていたら無言で去っていった。井部も退室し、私が最後。
腕時計を見ると、ちょうど昼休みに入っていた。マスクをつけてからビルをでて、近所のレストランでお昼にする。今日は『ぐるまんほっと』にしよう。
個人経営なのが一目で察せられる小さなそれは、黒茶色の上品な調度品に深緑色のカーテンが店内に渋い味わいをもたらしていた。出入口で手を消毒し、手近なテーブルを選んで座る。
「いらっしゃいませ」
店に合わせて黒茶色の制服を身につけたウエイトレスが、水とおしぼりを運んできた。こういうご時世だからマスクをつけている。目尻の動きで爽やかな笑いが感じられた。
「注文は待って頂けますか?」
「かしこまりました。お決まりになりましたら、そちらのボタンでお呼び下さいませ」
「ありがとうございます」
ウエイトレスが離れてから、メニューを開いた。出入り口に展示してあった見本から、ランチのブリ照焼定食は決まっている。問題は、口直しだった。宇土の首を切ったことで、精神的に仕切り直しが欲しい。
うーん。レモネード……アップルサイダー……。
決めた。ピザトーストセット。飲み物はホットミルクティーで。やっぱりケチャップがいい。食べすぎだけど、構うものか。
ボタンを押すと、さっきのウエイトレスがきた。決めた通りに注文すると速やかに伝票を書いて確認し、去った。失恋のヤケ食いとでも思われただろうか。
「お待たせしました」
しばらくして、三度同じウエイトレスが定食のお盆を給仕してくれた。ちなみにピザトーストはあとにした。
「ありがとうございます」
ウエイトレスがお辞儀して戻ってから、箸を割った。味醂を多めにしているのだろうか。ブリからは甘くコクのある香りが漂っている。
「頂きます」
小さく挨拶してまず味噌汁から。
店内の暖房には慣れてきていたものの、内側からじんわり暖まるのが嬉しい。出汁は煮干しだろう。
一口飲んで、小鉢のサラダにかかった。定食のレタスにトマト、ゆで卵。ドレッシングはすでにかけてある。さっぱりした冷たさと食感が心地いい。
ブリを一切れ食べると、思った通り甘味が強く濃い味つけだった。それが素材と噛み合ってとても美味しい。年に一度はこういう和食を口にしないと、地べたに足をつけられなくなるような気がする。
施設でも、似たような食事はあった。
大人になって寒ブリの意味が理解できてから、施設が少ない予算の中でどうにかして味覚でも教養でも豊かな食生活を送って欲しいと工夫していたのに気づいた。
箸休めに浅漬けの茄子をかじりながら、そういえばブリは出世魚でもあったと思いだした。地方にもよりけりながら、大雑把には成長に応じてワカシ、イナダ、ブリと呼び名が変わる。宇土の一件からすれば皮肉な取り合わせだ。むろん、意識したのではない。
ともかく、定食は申し分なかった。頃合いを計ってまたウエイトレスがきて、お盆を下げた。
ある意味定食は前菜で、ピザトーストが主菜になる。自分でもめちゃくちゃな表現だと思う。仕方ない。
「お待たせしました。ピザトーストセットをお持ちしました」
二つ目のお盆には、白磁の平皿に乗ったピザトーストと同じくミルクティーの入ったティーカップが乗っていた。
厚切りトーストの上でどろどろになりかけた黄色いスライスチーズと、輪切りにされた緑色のピーマン、そして脂を滴らせる桃色のベーコン。とどめに真っ赤なケチャップ。
トーストにはあらかじめ切れ目が入れてあり、食べ易かった。一口頬張った瞬間、熱々のチーズから漏れる湯気と塩気が口の中でピーマンの苦味と混じり合い、そしてベーコンの肉汁がケチャップに組み敷かれていく。
あっという間にピザトーストを平らげてしまった。ホットミルクティーは優雅に一口ずつ飲んでいく。世間並な家庭でなら、だれでも一回くらいは親子で喫茶店かレストランのピザトーストを楽しんだりもしただろう。もし私に機会があったなら、ここまでトマトにこだわったりはしなかったに違いない。いや、いつかは……。
白磁といえば、正が売れない陶芸家について話していたっけ。検見さん。仕切り直しかたがた、私が直々にテコ入れしようかな。駄目だったら駄目でいいし。
そんなこんなでお昼は終わった。
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