十一、怪しい連中をからめた鮭のケチャップ炒め 二

 宇土のような小心者が、クビになったにも関わらず浮気を続けるとは想像しにくい。また、宇土の妻が第三者と浮気するのも同じくらい可能性が低いだろう。つまり、表面的なものであるにせよ夫婦仲はある程度修復したと考えていいかもしれない。『金杖』はまだ動いてないようだが、宇土の妻はそれを楽しみに上辺だけ修復された関係を演じているのかもしれない。


 今日は、器と食事の間柄に新しい見識を得た日でもある……知的な喜びを感じる一方、卑俗で文字通りのワイドショーネタを並行して考察している私。さしずめエンジェルズベルは白飯で壁がお味噌汁で、検見さんとの企画が主菜といったところか。そんな埒もない空想にふけりながら沢庵をかじった。


 食事もそろそろ終わろうかという時。また別な客が現れた。ちらっと戸口を見てすぐに顔を伏せる。こんな時に絶対に会いたくないチンピラジャーナリスト、江原。そもそも公の場で堂々と歩いて欲しくすらない。交通事故にでもあったのか左頬に大きな湿布を貼り、首には鞭打ち症の人間がつけるカラーをはめている。左手の甲には包帯が巻かれていた。『金杖』が仕事をしたのかも知れない。同情どころかざまあみろだ。


 私に気づかないまま、江原は奥に至った。思わず目で追うと、あの怪しい客の真向かいに迷わず座った。これはもう、事前に打ち合わせをしていたとしかいいようがない。


 昼休みもぼちぼち切り上げ時になりつつあった。社長の私がこうした時間を守らないのは沽券に関わる。それに、まさか席を移して観察するわけにもいかない。


 自分の腕時計から判断するに、ぎりぎりあと五分か。スマホでネット記事を読むふりをして、録音モードをつけた。当然ながら、雑音だらけでちゃんと聞こえるはずがない。しかし、『アスファルト』に解析を依頼すれば少しはましな内容が得られるだろう。


 五分後。席をでて支払いを終えた私は、職場に帰った。なに食わぬ顔で仕事をしつつ、途中でお手洗いにいった。個室の中で、さっきの録音データを『アスファルト』宛てにメール送信する。それからはまた、同じ流れの仕事を始めた。


 いつも通り、定時で会社は終わった。正は夕食の買い物にいき、私はアパートに直行。玄関の鍵を回している途中で、スマホがメール着信を告げた。『アスファルト』からの解析結果だ。


 ドアを閉めてから、土間で靴も脱がないまま深刻に考え抜いた。さすがにこれは、確実に邪魔の入らない場所で聞きたい。自分の部屋でも悪くはないものの、物理的な音声もあるから万が一にも正に知られてはならない。イヤホンだと逆に、だれかが近づいても気づきにくい。


 いっそのこと、ビジネスホテルにでも泊まろう。これまでにもなかったことではない。


 正にはお詫びのメールを送って、玄関口を回れ右した。鍵をかけてからすぐスマホで空室を検索し、一時間後にはチェックインが終わって部屋に備えつけのシャワーを浴びていた。食事はうどんのチェーン店ですませた。


 久しぶりに自宅以外のお風呂を使い、少しだけ新鮮な気持ちになった。体をふいて髪を乾かしてから、ベッドに寝転んでスマホをつける。正からは、ごく簡潔に了解したという返信がきていた。それはそれとして、録音。


『ま……ちらをど……』


 辛うじて江原と判断できる、音割れしたり飛んだりしている声がまず再生された。それから四分以上沈黙が続いた。


『いいだ……。ほう……だ。断って……私と……だ』

『そ……こち……承知ですよ。まあ、おた……なった……がね』


 それから、頁をめくるような音が少しした。


『たしか……原付も……るし治療……お釣りが……すよ』


 そこで途切れた。終わりだ。


 江原が、怪しい客と特別な取引をしたのだろう。頁をめくるような音は札の枚数を数えたに違いない。原付と治療。昨日、電車からちらっと見えた残骸を思いださずにはいられない。『金杖』の可能性がいよいよ高くなった。


 そこでSNSの通知を受けた。駒瀬からのメッセージ。オンライン陶芸教室の参加を決めてくれた。ささやかながら大事な成果なので心から感謝した。もっと重要なのは、同じメッセージにあった彼女の世間話だった。


 この話には、ちょっとした伏線がある。


 かなり以前、蒲原総務部長が自宅に忘れた資料を駒瀬に届けさせたことがある。たまたま駒瀬が業務で外出していたから、ついでに頼んだらしい。応対した部長の奥さんが、通りいっぺんの挨拶だけでつっけんどんに資料を渡したのに閉口していた。


 その奥さんが、数日前にどこぞのレストランで『ウチの嫁からは即刻手を引かないと訴えます』と冴えない中年男性を追い詰めていたそうだ。


 駒瀬は、ああした性格の割に一人で外食することが多い。そこでたまたま目にしたという。正直なところ、駒瀬に宇土の顔写真を送って突き合わせたい欲求を感じた。


 私は現実主義者だ。欲求を実行に移すと、すぐに返信がきた。うろ覚えだが確かに似ているという。それで、ほぼ確定した。


 陽子はとうに『エンジェルズベル』を退会しているが、追い詰められていたのは宇土だと考えていいだろう。部長の奥さんの性格からすれば、陽子の立場を守るというより自分達の世間体を意識しているのが簡単に想像できる。


 駒瀬には不自然でない程度に礼を述べておいた。


 なにはさておき、『アスファルト』にそれなりの報酬をネット送金した。さらに、改めて蒲原家を盗聴するよう指令する。追加料金を払い、会話内容に字幕を添えるように望んだ。


 もし、江原が接触したのが蒲原家のだれかなら。自衛のためにも『壁』の商売のためにも先手を打っておかねばならず、それには迅速な情報収集が必要不可欠だ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る