八、イワシハンバーグ、その裏表

 翌日。出勤してから、検見さんのオンライン陶芸教室の企画案をまとめた。午前中いっぱいかかった。


 お昼になるので、今日のランチについても並行して思案している。肉はここ数日山ほど食べたし、次は魚にした方が……と思っていたら電話が鳴った。すぐに受話器を手にする。


「はい、エンジェルズベル久保でございます」

「お忙しいところ失礼します。こちらは県警性犯罪対策室の……」


 よりにもよって。昨日の件かと思ったら、今朝の話だった。井部が、通勤電車の中でまた江原につきまとわれていたらしい。善意の第三者から通報があった。


 井部が一つも態度にださないのは立派だし、業務に無関係なのは間違いない。それでも、現に『被害』は起きた。私を不快にさせるという被害が。昨日の件だけでも相当だったのに、もはや限界を越えた。


 こちらからは、井部の話を聞いて会社として被害届をだすかどうか決めると答えた。警察から聞いた連絡先をメモし、挨拶して電話は終わった。


 弁護士と相談するのが上策だろうか。いざ裁判となったら、痛くもない腹を探られかねない。幸い……と表現するのも変だが……警察は井部への個人的なストーカー行為と考えているようだ。その筋書に乗っておけば、江原が『壁』についてなにか訴えても変質者の戯言ですませやすくなる。


 いずれにしても、部下二人にはメールを送って警察からの電話を伝えた。いちいち声をかけるのはそれこそ仕事の邪魔だ。


 ようやくお昼にかかれたものの、余り食事を楽しむ気になれない。その意味でも、江原には罪を償わせねば。


 お腹が減るのは事実なので、会社から歩いてすぐのコンビニでサンドイッチと紅茶を買った。食事は同じ店の飲食コーナーで終えた……感染症を警戒して座席を制限してはいるものの、利用できるのはありがたい。


 気分転換かたがた、今日の夕食について頭の中でまとめておくことにする。


 肉はもういい。ならば魚。頭にくる話があったことだし、血管をきれいに掃除してくれそうな栄養が欲しい。なら青背……イワシにしようかな。それも、煮たり焼いたりというよりはミンチにしてイワシハンバーグ。うん、そうしよう。


 午後に入り、まとめ上がった企画案を検見さんにメールした。スーパーで働いている時間かも知れない。これまでの打ち合わせや本人の立場からすれば、翌日までには返信がくるだろう。


 それからは雑多な案件に時間を費やした。流れは順調なので、むしろ一日の仕事の道筋を掴む練習を意識した。


 定時。退社した私はカクマート……検見さんがアルバイトをしているスーパー……に入った。検見さんと話をしたいからではなく、食材を補充するために過ぎない。


 もし検見さんが働く姿を目にしたら、ちょっとだけ観察するつもりではいた。勤務態度からある程度は人となりが理解できるし、企画の進め方にも参考になる。


 イワシにショウガ、生シイタケに青ネギと食材を手押し車に入れていく。イワシは消費期限だけでなく、眼が充血しておらずお腹のラインがしっかりしたものを。生シイタケは傘が完全には開いてないもの、青ネギは艶があってみずみずしいもの。そうやって食材を目利きしながらさりげなく探したものの、検見さんの姿はなかった。


 会計をすませて外にでると、ここ数日でことさら冷えこんだ空気が黄昏時の弱々しい光をいっそう薄めているように思えた。早く帰って熱々のイワシハンバーグを頬張りたい。私だって人並みに、彼氏と職場の愚痴を語り合いたい。


「ただいま」


 帰宅しても、正の姿はなかった。変わりに一枚の小さなメモ用紙が食卓の上にあった。どこかへいってしまわないよう、胡椒の瓶を重しにしてある。


 急用ができたから先に食べておいて欲しい、自分は食べてから帰るのでいらないだって。どうせならメールかなにかで早く伝えて欲しかった。


 全くないことでもない。それに、お互い自分からいいたくないことは詮索しないのが暗黙の了解になっている。


 詮索といえば、エンジェルズベルでは夫婦や恋人達のカウンセリングも有料で行っている。担当は井部。『壁』にもたらされる情報もそこを発信源とするものが多々ある。


 こういうときは、食材を食卓の上で整理しながら自分のやってきたことを嫌でも振り返ってしまう。


 結婚相談所に限らず、銀行や不動産といった個人情報を扱う企業が『秘密厳守』を謳うのは半分事実で半分嘘だ。


 組織としての建前は、当然に法律を守る。けれども裏では重要性に応じてそれなりの値段が一人一人の個人情報についている。もっとも、特別な機会がない限り自分から積極的に売買はしない。


 問題は、特別な機会が起きた場合だ。借金の返済が遅れてブラックリストに上がった、なんていう生ぬるいものじゃない。次元の違う……例えば、できたばかりの企業が巨額の融資を依頼しにきたり土地を買おうとしたら。企業の経営体力は、法律を守った調査だけで把握できるとは限らない。社長の身辺だけ理解していればいいとは限らない。社長が専属の運転手や秘書になにか洩らすかもしれない。運転手や秘書は個人的な友人にそれを打ち明けるかもしれない。『壁』もまた、そうした流れの末端に触っている。


 台所で、まな板を置いて食材を切ったり砕いたりする場所を天板という。カタカナ英語ならワークトップ。


 その天板で、個人情報の処理に思いを馳せつつ銀色に輝くイワシのうろこと頭を落とした。それから素手で腹を裂き、内臓を捨ててきれいに洗う。今度は指を身に入れ、腹から背にかけるように開いた。皮はついたままだし、骨は骨で身から取り除いて頭や内臓と一緒に捨てる。


 フードプロセッサーを使えば、簡単にはなる。でも一人で食べるのだから、あとの掃除が大変なフードプロセッサーは使いたくなかった。


 手開きしたイワシは、包丁でぶつ切りにしてから切り刻む。ミンチにするためだ。図らずも江原の面が浮かび、その意味でも念入りにした。


 原型を留めなくなったイワシミンチをボウルに入れ、生シイタケや青ネギを次から次へと洗っては刻み同じボウルに入れていく。とどめに料理酒と片栗粉と味噌を混ぜ、適当に手でこねた。


 あとは、好きな形に整えてからフライパンで焼くだけだ。油はサラダ油を使う。いざ焼き始めると、聞くだに美味しそうなじゅわーっという音がフライパンからたち昇った。それを耳にしながら、ボウルや包丁を洗ってキッチンペーパーでふいた。作業がすみ次第、元の場所に戻した。


 次に、お皿とケチャップの出番になる。焼き上がったイワシのハンバーグをよそい、ケチャップを一つ一つにつけていくのは一番楽しい瞬間だ。正にだすつもりだった分は、明日のお弁当にしよう。生鮮食品は日持ちが利きにくいので、どのみちまとめて作っておくにこしたことはない。


 ご飯にイワシハンバーグだけの、質素な食事になった。味噌汁なりインスタントのカップスープなりを添えてもいいけど、やっぱりそこまでする気になれない。


「頂きます」


 一人で唱えた私は、まずイワシハンバーグを食べた。期待以上に美味しい。魚を使ったこの類は、生臭さをださないのが絶対条件になる。そもそも新鮮な魚を選ぶのはもちろん、内臓が潰れて中身が身にかからないようにもしないといけない。イワシそのものはとても美味しい反面、傷みやすい魚でもあった。


 そんな手間やこだわりも、知ってくれる人がいたらとても嬉しい。まして一緒に楽しんでくれる人がいたら。


 正は、可能な限り私に寄り添ってくれている。距離の取り方も理想的。今日、たまたま夕食にいなかったのも不満はない。それでも、満足にはほんの少したりない。これが贅沢というものなのだろうか。


 ラップをかけられ、内側から水滴をつけていくもう一皿のイワシハンバーグを目にしながらコップの水を一口飲んだ。

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