第5章第5節「神に見棄てられた土地」
再びレイヴェスナに招かれた桜井は、フォルテシモ宮殿の調律の間へと通された。最初に女王と謁見した部屋とは異なり、かなり広々とした白い空間。そこでは思わず身を預けたくなるような心地の良いハープの音が響いている。
ハープが奏でる美しい調べに導かれ、桜井は中央にいるレイヴェスナのもとへ歩み寄る。女王は繊細な手つきでハープの弦を爪弾き、清らかな音を奏でている。その優雅な佇まいと優美な調べに、桜井はどう声をかけるべきか迷った。
ファンタジアの森で『ムジカリリス』が奏でた音色は過剰なまでに活気に溢れていたが、女王が奏でる音色はどこまでも澄んでいる。心まで洗われるような感覚に、桜井は思わず息を吐いた。
その時、ちょうど演奏に区切りがついたのか、余韻を残してハープから手が離れた。
「演奏のお邪魔でしたか……?」
声をかけるタイミングを失っていた桜井は、遠慮気味に問いかけた。
「お気遣い感謝します。ですが、アルカディアの調律はこれで十分でしょう」
レイヴェスナは優雅さを保ったまま、両手を膝の上に置く。ハープの余韻は今も空間に残り続けている。
それを耳にした桜井は、道中に浮かんでは消えていたある疑問を彷彿させた。
「アルカディアの歴史は音楽と関係があるそうですね。もしかして、そのハープにも何か意味が?」
波長が合うという挨拶。
音楽用語を冠した地名。
ムジカリリスという不協和音の旋律を奏でる植物。
アルカディアに音楽が深く根付いているのは経験からも分かるようになった。まだ浅いとはいえ彼の知見は正しかったらしく、レイヴェスナは自身の胸に手を当てた。
「万物はそれぞれの音を持ち、その音によって紡がれる旋律が世界を織り成す」
そうして己の鼓動を乗せた手を、もう一度ハープの弦へと伸ばした。すると、女王の気品を表したような静謐な調べが奏でられる。
「この弦が奏でる音色は、万物が持つ異なる音を牽引する主旋律になることができる。音を失った迷える音符も、正しい旋律へと導く。ですから、このハープを奏でている時だけは心が安らぐのです。尤も、私の恩師であるユリウス卿から賜った神器というのも大きいのですが」
曰く、シグナスの母であるユリウスの遺産だというハープ。それを聞くだけでも、特別さは十二分に伝わってくる。
「十年前、私が幼かった頃はよくここで安らぎの旋律を奏でてくれたのです」
女王は過去を懐かしむようにハープを見つめていたが、すぐに我に返った。
「失礼、お聞き苦しい昔話は程々にしておきましょう────ご無事で戻られて何よりです、エージェント桜井」
最初に依頼された魔法生命体レリーフの撃退を果たし、結果としてアルカディアは平和を取り戻した。道中では様々なことが起こり、数え切れないトラブルにも見舞われた。こうして無事にレイヴェスナの元へ戻ってこられたのは喜ぶべきことだろう。
「貴方なら、アルカディアからレリーフを撃退してくださると信じていましたわ」
優雅で丁寧な言葉遣いでスラスラと言葉を紡ぐが、桜井は女王の言葉を素直に受け取るべきか悩んでいた。
もし桜井がしくじっていたら、女王自身の力でどうにかしたのだろうか。女王は超能力者であり、先刻見た通り神の如き力でアルカディアを蘇らせた。そう思うと、桜井がやってきたことはちっぽけで盤上の駒に過ぎないのではないかと思えてならなかった。
「そう固くならないでくださいな。結末がどうであれ、貴方は使命を全うしたのです。アルカディアの民に代わって、お礼を言わせてください」
すっかり萎縮していたことを見破られ、彼は観念して頭を下げた。
「身に余る光栄です、レイヴェスナ卿」
とはいえ、桜井はレリーフ・バンビと戦っただけであり、獄楽都市クレイドルの侵攻を食い止めたわけではない。むしろ成す術もなかったと言っても過言ではない。彼がレイヴェスナの言葉を素直に捉えなかった一因として、それは大きく影を落としている。
「ただ、クレイドルを止めることはできませんでした」
それでも彼らはこうして生きているし、アルカディアは平和を保っている。紛れもない事実ではあるが、桜井は受け入れ難く感じていた。
あたかも、今朝見た悪夢が正夢になることを怯えるかのように。
「……不謹慎を承知で言いますけど、あの惨状がもしラストリゾートだったらと思うと」
シグナスが説明してくれたように、仮にラストリゾートが同じ状況に陥った時にレイヴェスナが力を使ってくれるとは限らない。アルカディアが蘇ったのは、そこがアルカディアだからでありレイヴェスナがその女王だからである。
平和な空気には似つかわしくない桜井の言葉に、レイヴェスナは咎めることはせずに目を伏せた。その瞳に焼きついたあの災厄を思い起こすかのように。
「私たちに降りかかる厄災を払いのけられたらどれほど良いか、私も考えたことがあります。しかし、世界の終末を凌ぐ傘は存在し得ない。代わりに、厄災はいつか過ぎ去るものですわ」
幸いにもクレイドルは撤退した。撃退できたわけではないものの、あの魔導母艦は飛び去ったのだ。
「この世には、そういった厄災の訪れを指し示す終末論があまりにも多い。クレイドルもまた、その一つ。ですが、少なくとも貴方のおかげでレリーフ・バンビが実現させた終末論は否定されたのです。厄災が過ぎ去った今、私たちがすべきなのは刻まれた苦痛を癒すこと」
バンビを阻止したところで、クレイドルを止めることはできない。クレイドルを阻止したところで、バンビを止めることはできない。
とはいえ女王の言葉通り、バンビとアズエラが唱えた終末論は戯言となったのは事実だ。
「ルズティカーナ村の一件についても、復興の兆しは見えています。今日まで多くの終末から民を救った名医であるセラフィーナ・アリアラテス院長が手を尽くし、殆どの村人は一命を取り留めましたわ。あとは時が解決してくれるでしょう」
ムジカリリスが引き起こした昏睡事件。クレイドルの襲来によって追いやられていたが、桜井の知らない所でその傷痕も癒え始めているという。
村での事件と言えば、その首謀者として疑いがかけられているシグナスのことが思い出される。それを察してか否か、女王は彼女についても触れた。
「ミス・シグナスへの容疑についても聞き及んでいるかと思いますが、ご心配には及びません。ムジカリリスの種が発見され、ミスター・アズエラの私室からいくつかの証拠品を押収しています。彼の筋書きでは、終末論が実現すれば証拠を隠滅する必要もなかった、ということでしょう」
詰めが甘いと言うべきか、なんと言うべきか。ひとまず、シグナスの疑いが晴れるのなら問題ないだろう。
と、女王は最後に少し言葉を詰まらせた。天下のアルカディア女王をも懸念させること。それは、
「残念なのは、魔法調律連盟盟主の不在……悪影響をもたらさなければいいのですが」
彼女のことが気がかりなのは、桜井も同じだった。
「クレイドルの船にはデュナミスがいました。彼女のおかげで、俺は船から出られたんです」
不可能性というこれまでのレリーフとは異なる理念を語ったデュナミス。彼女がなぜ船内にいたかはともかく、桜井を助け姿をくらました。まだ信用できるかすら曖昧な状態だが、桜井は彼女を助けに行くべきなのか。それとも悲しむ素振りも見せず、勝ち取った安寧を享受すべきなのか。
桜井には分からない。なぜなら、彼女のことは他人事とは思えない────それどころか、自分の身体の一部をあの船に置いてきたような感覚にさえ陥っていたからだ。
ともすれば先の女王よりも心を曇らせていると、彼の耳に馴染みのある言葉が届く。
「であればミス・デュナミスにとって、貴方は淘汰されるべき存在ではなかったということでしょう」
奇しくもレイヴェスナはデュナミスの言葉をそっくり紡ぎ出した。どうして女王がそれを知っているのか。疑問が浮かび上がった次の瞬間には、自分でも理解できないにも関わらず腑に落ちた。
「彼女が貴方の分身ならば、きっとその意志は伝わるはず。いつか、一矢を報いる時が来きますわ」
「……」
魔導図書館でユレーラとして目覚めた後、彼はレイヴェスナと出会った。女王は桜井とユレーラを当然のように区別して捉え、彼らが分身であることを当然のように知っている。
「ですが、今はその時ではありません。英雄にも休息は必要です。他に何かお困りなら、なんでも私にお話しください。今回のご恩には及びませんが、できる範囲でお力添えいたしますわ」
破滅を迎えたアルカディアを蘇らせた超能力者レイヴェスナ・クレッシェンド。その高貴で上品な風貌に慈しみ深い笑みを浮かべ、桜井を虹色の瞳へと閉じ込めている。
「なんというか、不思議な感覚です。あなたには二人の俺として会ってる……それどころか、もっと多いかも」
実は桜井がこうした感覚に陥るのは初めてではなかった。偶然にも、その相手もまた超能力者だ。いや、必然というべきなのだろうか。
「ふふっ、そう恥じないでください。人の本音は容易くは聞けないもの。だからこそ、貴方を知ることができて嬉しく思います。私に遠慮する必要はありませんわ」
ともあれ、レイヴェスナには桜井が抱えている秘密を知られている。ならば、下手に隠す必要もないだろう。
桜井は腹を括ってアルカディアへ訪れた本当の目的を告げた。
「俺がアルカディアに来た理由は、レリーフを倒すためだけじゃないんです。俺の手元にあった二振りの魔剣。俺の分身だった魔法生命体レリーフ。アルカディアならそれが分かるかもしれない。そのためにここへ来たんです」
もちろん、自発的に訪れたわけではない。レイヴェスナからの招聘がなければ、考えつきもしなかっただろう。結果として見れば、アルカディアへの招聘は完璧なタイミングであったし、今となってはそれすらも仕組まれていたかとも思う。無論、考えすぎだろうが。
「如何でしたか?」
桜井の本当の目的を聞いたレイヴェスナは、多くを語らない。ただその結果を聞いた。お互いにとって、もはやそれだけで十分だったのだ。
「魔剣はレミューリア神話に登場するものだった。これだけでも大きな収穫です。それから、三人のレリーフと出会って分かったこともある。今からそれを確かめに行かなきゃいけません」
知りたいことはまだまだある。だがそれはレイヴェスナに聞くべきことではない。
もっと、直接聞くべき人物がいるのだ。
「では、ラストリゾートへ帰られますか?」
それ以上、女王は話を長引かせたり呼び止めるようなことはしなかった。彼が答えを求めているのなら、答えがある土地へと返すべき。それが女王が成すべきただ一つのこと。
ラストリゾート大使館。桜の木が立派に咲き誇るそこには、多くの市民たちが詰めかけていた。彼らは桜井の見送りに来たというわけではなく、レイヴェスナを一目拝もうとやってきたのだ。女王を女神と呼び、皆が救われたことに対して頭を垂れ手を合わせて崇めている。それほどのことを成し遂げたのだから、桜井も彼らを不思議には思わなかった。
大使館には多くの人々が集まっているものの、評議会評議員はラザリアス公爵とド・ウォルザーク辺境伯夫人、
「礼を言うぞ、エージェント桜井。また何かあれば召集をかけてもいいかの?」
公爵はシワだらけの手で握手を求め、桜井もそれに応える。
「喜んで」
「うむ、お前さんならそう言うてくれると思っておったわい。達者でな」
公爵と短い別れの挨拶を済ませ、桜井は今一度レイヴェスナを見た。彼女はゆっくりと頷き、言葉の代わりに笑みを返す。
魔法郷アルカディア。
ラストリゾートから遠く離れた土地で、桜井結都は自らの張り巡らされた運命の弦のいくつかを爪弾いた。それが奏でるは奇跡か、はたまた不条理か。可能性は無限にあるだろう。しかし、現実から一歩外れたところにあるのは、無数の不可能性。それは現実になることのなかった可能性の亡骸たち。
しかし、桜井結都は知っている。
可能性の亡骸────不可能性────が、現実となってしまうことを。
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