第2章第7節「地続きの天国と地獄」

「ついてこい。向こうの草原に人影を見つけた」

 自然の猛威にさらされ人々が追いやられた廃墟は森の中に打ち捨てられている。ソプラノ地区の景色がどれだけ奇跡的なバランスで成り立っているのかがよく分かる。

 倒壊した玄関から中へ入っていくと、思いのほか生活の残り香を感じ取ることができた。破けて苔の生えた絨毯、朽ちて変色したタンス、今にも落ちそうなシャンデリアの残骸。中腹の抜け落ちた階段は森の一部と化していて、小さなトカゲ型の魔法生物が駆けている。屋敷の二階へ行くことはできそうにないが、シグナスは崩落した壁の方へ進んでいた。倒れた柱を乗り越えて壁にできた穴から外に出てみると、屋敷の裏手に繋がっていた。

 屋敷の裏手はちょうど森を抜けた先になり、淡い光を放つ草原が広がっている。ツリーハウスがある流れ星の丘から見えた、あの草原だろう。見渡す限りのカラフルな花が咲き誇っている。そうした明るさの中で、シグナスの言う人影は目立ってすぐに見つけることができた。

 シグナスは草や花を気にかけることなく、時にかきわけ時に踏みつけて進んでいく。桜井は足元にある紫や青の花を踏むのは居た堪れなく感じ、できるだけ避けて進んだ。

 やがて近づく足音に気付いたのか、しゃがんでいた人影はゆっくりと立ち上がった。

 シグナスと同じか少し低い程度の背格好で、光を帯びた草原に照らされた顔は幼い。まだ小さい男の子がこんなところで何をしているのだろうか。左腕にはバスケットを抱えていて、中にはまだ光を放っている花が摘み取られていた。

「こんなところで花摘みとは、レリーフにも趣味があったのか」

 聞き間違いでなければ、シグナスはレリーフと言った。そう、目の前に立つ少年がレリーフ・バンビだというのだ。

 アルカディアに来るまでのレリーフは、桜井結都の分身でありその容姿は彼自身に似ていた。しかし村では女性の姿をしたレリーフであるデュナミスと出会った。そのことを踏まえれば、レリーフ・バンビが少年の姿だとしても不思議ではない。むしろ、レリーフという存在に対して外見に固執しない方がいいのだろう。何せ、桜井が戦ったのはユレーラという個体でありその他の個体がどういった存在かは一切不明だからだ。

 光の草原に立つレリーフ・バンビの姿は美しい絵画のよう。想定外の対面ではあったが、目に映る荘厳な佇まいに桜井は目を奪われる。それは絵画などでなく現実であり、バンビは右手に摘んだばかりの花を持ち上げた。

「美しいだろう? 灯火花フレアランスだ」

 オレンジの温かい光を灯す花は、間違いなく魔力に由来する植物。彼は摘んだばかりのそれをバスケットの中へ入れ、代わりに別の花を摘み上げた。

「この青い花はアルカディア・デイジーというらしい」

 そして、とバンビはさらにもう一つの花を見せた。

「これはムジカリリスの花だ」

 たくさんの花が入ったバスケットを持っていることからも分かるが、バンビの目的は花摘みらしい。だが、彼はムジカリリスの花も摘んでいる。

 即ち、花摘みだけの単純な目的でないのは明らかだ。

「その花を集めてどうするつもりだ?」

 ムジカリリスがどれほど危険な植物かは、桜井も身を以て体験したばかり。良からぬことを企んでいるであろうバンビは、ムジカリリスの花を手で弄ぶ。

「理想的な花園を作るためには、まず地均しをする必要がある。雑草を根こそぎ取り除く。それからこれの種をまき、新世界を芽吹かせる」

 バンビが粛々と語った目的は抽象的だ。解釈次第ではどうとでも捉えられるが、そこには神話に根ざしたものが通っている。花を摘んで自前の花壇に移し替えるほど単純な話ではない。今は浅い知識しかない桜井では理解できなかっただろう。

「なるほど。ムジカリリスを使ってアルカディアを滅ぼす、そんなところか?」

 神話に精通するシグナスはバンビが言わんとしていることを理解している様子だ。ムジカリリスにはアルカディアを滅ぼすに足る力があるのだろうか。

 バンビはシグナスの言葉にイエスともノーとも答えずに空を見上げた。一面に広がる分厚い魔導雲は赤色や緑色に輝いていて、見る者を惹きつける。だがそれは本来の天文学的な現象ではなく、超自然的な現象だ。世界にそれほどの影響をもたらす魔法、その一部を見上げるレリーフ・バンビ。自身もまたその産物の一つである彼は何を思っているのか、ムジカリリスの茎に口をつけた。

 先ほども聞いたばかりの笛の音色が草原に響き、桜井は身構える。反してその音色は心地良いが、それに溺れたら最後には破滅を招く。

 それを知ってか否か、バンビは草笛を吹き終えて微笑む。

「実に良い音色だ。お前はこれほど美しい調べが破滅を招くと言いたいのか?」

 戯けるバンビはムジカリリスの花を丁寧にバスケットへと戻す。

「ふふっ、シグナス・フリゲート。ユリウス・フリゲートの娘であるお前を狙う者は数多くいる。とはいえ、どれだけ腐ろうとお前は奴の娘。実際にお前を殺すことができる者はほとんどいないだろう」

 空を見上げると自分が小さく感じることがあるという。が、レリーフであるバンビがそんな感傷的なことを思うはずもない。彼はシグナスへと視線を落とし、彼女に敵意を突きつけた。

 短い間にもシグナスは多くの敵対者と顔を合わせてきた。コンツェルト評議会でもルズティカーナ村でも、彼女は周囲から敵視されて明らかに孤立している。それは桜井の目から見ても明らかであると同時、誰も彼女に手を出してはいない。一線を越えそうになったことこそあれど、前提として彼女はユリウス・フリゲートの娘だ。バンビの言うことが的外れだとは言い切れない。

「かく言う僕も、たった一人でお前に負け戦を挑むほど馬鹿じゃない」

 レリーフであるはずのバンビにとってもシグナスは大きな障害となっているらしい。それは暗に、彼が他者を利用しているとも言っていた。

「ほう、誰に泣きついたんだ?」

 あえてシグナスは誰と手を組んだのかを問い質そうとした。デュナミスが言っていたことの真偽を確かめるチャンスなのだ。もしデュナミスが提供した情報と一致すれば、彼女の信用に繋がる。

 のだが、

「別に聞かなくても分かりますよね、アズエラだってことくらい」

 シグナスとバンビから少し後方にいた桜井、その隣にいたセレサは煩わしいと言わんばかりに口を挟んだ。続けて声がしたのは桜井の胸元。胸ポケットに収まっていたヴェロニカは呆れ顔で肩を竦めていた。

「セレサ。少しは空気読んだら?」

「空気に書いてあったんだって」

 せっかくのチャンスを棒に振られ、シグナスは小さく舌打ちをする。だがアズエラの名前を聞いたバンビは、彼との関係をあっさり認めた。

「勘違いしないでもらいたいね。奴は自分一人じゃ叶える力もないくせに大層な可能性を見出していた。レイヴェスナ・クレッシェンドを殺し、アルカディアを陥落させる。僕はそれを手伝ってやるんだ。フリゲート、お前はそのついでだ」

 それどころか、バンビが思い描く終末論はアルカディアそのものに焦点を絞っていた。その終末論の実現は即ちシグナスの死も含有している。

「……デュナミスが言ってた通りだ」

 桜井は誰へともなく呟く。デュナミスが言うには、レリーフ・バンビは魔法調律連盟のイェルバドール・アズエラと手を組んでいる。それが真実であることがバンビ本人から語られ、彼らはアルカディアを陥落させる計画を立てていた。そのための障害となるレイヴェスナ・クレッシェンドや、シグナスも排除することが彼らの算段には入れられている。

 問題は具体的な手段だが、草原で摘んでいる花だけでは何も分からない。

 しかしながら、目的と手段には必ず動機が伴うもの。ラストリゾートに現れたレリーフであるユレーラは、分裂した桜井に成り代わるるために行動した。では、目の前にいるバンビは何を動機にしているのか。ひょっとすると、その渦中には自分がいるかもしれない。

「お前の望みはなんだ?」

 考えを巡らせていると、桜井は自然に前へ出ていた。

「お前がレリーフだっていうなら、俺が叶えてやれるかもしれない」

 初めてバンビと目が合う。

 ユレーラと目が合った時にも、デュナミスと目が合った時にも、彼は心のどこかで何かを感じた。

 例えるなら、鏡の前に立った時と似ているかもしれない。

「どういう意味だ?」

 桜井の言葉の意味を飲み込めなかったシグナスは、前に出てきた彼に問いかける。彼はまだアルカディアに来てから、レリーフ──ユレーラが自らの分身であることを明かしていない。最初に明かすには混乱を招いてしまうし、アルカディアに出没するレリーフが同じとも限らない。村で出会ったデュナミスはそもそも女性であって、桜井とは似ても似つかなかった。

 だが、彼はバンビを見て既視感を覚えたのだ。記憶の奥底に沈んだ小さい頃。まだ幼かった頃の自分の写真を見た時と同じ感覚。

 それが気のせいでないことは、目の前にいるレリーフ・バンビが証明した。

「僕とお前を一緒にしないでくれ。確かにだが、望みが一つとは思わないことだ」

 ────僕たちはお前の分身。

 神秘的な草原に放たれた真実は、そよ風に乗って緩やかに波及する。少なくとも、セレサ(とその肩にいたヴェロニカ)やシグナス、そして桜井の全員がその言葉を聞いた。

 バンビは間違いなくユレーラとは違う。姿はもちろん、願いも異なるという。だが、桜井の分身であることだけは認めた。

 そう。

「……レリーフが、だと?」

 魔法生命体レリーフは桜井結都の分身である。

 その真実を知ったシグナスは、一瞬の内に桜井を拘束した。彼が気付いた時には、両手は後ろ手に魔法の手錠で拘束されて草原へ倒される。光を帯びた草のおかげで衝撃は少なかったが、起きたことを理解するのに数秒を要した。

「ならであるお前を殺せば、あの忌々しいレリーフも消える。そういうことだな?」

 背中をヒールで踏みつけ、シグナスはツリーハウスで念入りに手入れをしていたクロスボウを片手に召喚する。もう片方の手には弓矢を出すと、彼女は弓板へ乱暴に叩きつけた。火花と共に矢が番られ、魔法によって弦を張る。矢を装填したクロスボウを片手で構え、地面に倒した桜井の頭へ向けた。

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