第2章第11節「地続きの天国と地獄」


「あ、おかえり」

 ツリーハウスへ入ると、中ではヴェロニカがソファでくつろいでいた。あたかも最初から留守番をしていたかのよう。レミューリアの堕天使である彼女がどんなことをしようと今さら驚かないが、ずっと小人サイズだったためやたらと大きくなったように感じる。

 ツリーハウスは本来のツリーハウスと空間を共有しているため、間取りも置いてあるものもまったく一緒だ。桜井が置いていたジャケットもきちんとハンガーにかけられている。

 シグナスはぬいぐるみのキーホルダーをつけたクロスボウを作業台に置き、セレサは冷蔵庫からお菓子とジュースを用意した。ここまでいろいろなことがあった。一行にも疲れが溜まっているのか、各々が一度肩の荷をおろしている。休憩することも大切だ。

 レリーフ・バンビはまだ活動を続けている。ファンタジアの森で摘んだ花を何に使うつもりなのかはっきりせず、消えた行き先も残念ながら分かっていない。ただシグナスが桜井の秘密を知ったことが皮肉にも一番の収穫だった。

 ツリーハウスの扉に仕掛けられた魔法陣が操作されると、ツリーハウスは流れ星の丘の上に戻された。それからシグナスはコップ一杯の水を飲むと、「少し風に当たってくる」と言ってベランダへと出ていく。彼女なりに頭を冷やそうとしているのだろうが、桜井は彼女のことが心配だった。

 これまで行動を共にしてきた中で、シグナスが桜井の秘密を知ったように桜井はシグナスのことを知った。その上で知った真実は神話に深く根ざしたものであり、少女が背負うには重すぎる宿命だ。

 何もせずにぼーっとしていることもできず、桜井は立ち上がるとシグナスがいるベランダに出た。

「私に殺されかけたことを咎めに来たのか?」

 すぐに桜井が来たことに気づいたらしく、シグナスは忌々しげに問う。

「そうじゃない」

 無論彼女を責めにきたわけじゃない。確かに二度も命の危険に晒されたが、避けようがない部分もあった。

「取り繕わなくたっていい。そうされて然るべきことをしたんだ。それが自分の罪なら甘んじて受け入れる」

 横顔だけ振り向いて話すシグナスは、存外現実的だ。草原でのことをシグナスは反省しているのか、謝りはせずとも過ちだったことを遠回しに認めた。

 想定していたよりも幾分か弱って見えるシグナス。桜井はゆっくりと近づくと、手すりに頬杖をついているシグナスの隣に立った。そこから見える景色は壮観で、セレサが最初に言っていた『シグナスがベランダで黄昏る』光景そのもの。彼はチラッとシグナスの方へ向き、ひどく弱っているように思える横顔を見た。

「罪を意識しすぎじゃないか?」

 聞くと、彼女は間髪入れずにこう答える。

「なら、お前は自分の分身であるレリーフが何をしようと平然としていられるのか? お前の分身であるところのレリーフが終末論を唱えようと指を咥えて見ているだけなのか? ……私ならそんなことはできない」

 レリーフ・バンビはアルカディアの陥落を企んでいて、デュナミスは魔法調律連盟を率いて終末論を唱えている。少なくともバンビはユレーラと同じ桜井友都の分身であり、デュナミスも必ずしも無関係とは言い切れない。彼に身に覚えがなくとも、レリーフの責任は桜井にも追及される。彼がアルカディアに招聘されたことも、今にして思えばそういうことかもしれない。

 それを罪と呼ばずになんと呼ぶのか。シグナスは桜井が背負っている罪に目を向けさせた。彼に現実を突きつけたのだ。

 しかし同時に、それは二人が唯一通じ合えるところでもあった。

「俺もだよ」

 彼は認めた。自分の罪を棚上げして彼女に罪を意識しすぎだと説く。上から目線の態度は無礼だと思われて当然だ。

 確かに二人は罪と形容できるものを背負っているのかもしれないが、一括りにはできない。

「俺は知らない間にレリーフとして分裂してて、そいつはラストリゾートを滅ぼしてまで俺に成り代わろうとした。結局、俺は俺自身を止められなかった」

 腰を折ってベランダの低い手すりに肘をかけ、桜井はシグナスの目線に近い高さで景色を見る。

「あいつを受け入れたのさ。レリーフをな。だから俺の手元には二本の魔剣がある。身に覚えのない罰が下った証があるんだ。でもそれは確かに俺に関係する、俺の罪みたいなものだった。否定できないし否定するつもりもない」

 ふと隣を見ると、シグナスは黙ったまま景色を眺めている。彼女の瞳は月の光を受けて、虹色に輝いていた。

「君の母は、あのユリウス・フリゲートなんだろう? それって、はっきり言ってすごいことだよ。歴史に名前が残る偉人だ」

 自らの罪を告白した桜井は、もう一度シグナスへ話題を戻す。彼女の母について、ラストリゾートに住む桜井は見当違いな認識をしているかもしれない。アルカディアでの彼女の扱いを見れば、自ずと分かることだ。だが桜井はあえて、自分から見たユリウス・フリゲートの人物像を話した。

「俺たちは魔法の恩恵に預かっているんだから、君のお母さんには感謝してもしきれない。魔法産業革命だって起きなかったし、こんなに綺麗な景色だって見られなかったんだからさ」

 教科書で学んだ知識によれば、魔力は十年前のフェイズシフトによってもたらされたとされている。そのフェイズシフトを起こしたのが、世界最初の魔導師であるユリウス・フリゲートだ。彼女がもたらした魔力は当初世界を混乱させたが、魔法産業革命の引き金となった。産業革命がなければ、ラストリゾートは開発されず魔法も実用化されなかった。アルカディアで見た神秘的な景色も、見ることはできなかったのだ。

「なのに、君はフリゲートの血筋だからってだけでみんなに恨まれて。むしろ君のお母さんのおかげで今の世界があるのに」

 素人目線な桜井の見方を、ユリウスの実の娘であるシグナスはどう受け取るだろうか。もしかすると、彼女は取り留めもなく聞き流しているだけかもしれない。

 少なからず感じることがあったのか、シグナスは手すりに頬杖をついたままため息を吐く。それは目の前の幻想的な景色に向けられたものではない。

「魔法がもたらされたことで都合の良いことばかりが起きるわけじゃない。レリーフに分裂した身の上のお前なら分かるだろう」

 桜井は魔法の良い面ばかりを語ってきた。実際、彼がDSRへ入ろうとしたのも魔法の素晴らしさとその謎を追求するためだった。しかし、DSRとして活動していく中で彼は魔法の良い面だけでなく悪い面も見てきた。魔胞侵食によって街は自然へと還されてしまい、魔法を利用した犯罪も横行する。ついには魔法が意思を持ったレリーフまでもが現れ、彼らは桜井の分身だった。

「だけど」

 どちらも事実であり、どちらかだけを選ぶことは難しい。だから彼らは向き合う。そのために自分たちがいる。

 そう説得しようとしたが、シグナスは手すりから体を離して言葉を被せてきた。

「同情など必要ない。私を分かった気になるなんて百年早い」

 年齢にそぐわない凄みは彼女が背負う宿命に伴ってついてきたもの。彼女はまだ小さく頑固で、桜井の言う事を素直に認めようとはしないだろう。

 桜井もまたアルカディアには来たばかりで、シグナスもまた彼とレリーフの関係を知らなかった。もっと言えば、レリーフについては桜井ですら把握できていない。その点において、現状のシグナスが理解していることはより少ないだろう。

「それはお互い様だろ」

 彼の一言が気に障ったのか、シグナスは桜井のネクタイを引っ張って顔を近づけた。

「次に余計なことを言ってみろ。二度と口を利けなくしてやる」

 本気で脅していることは目を見れば分かる。二人はあくまでも赤の他人であり、必要以上の関係に踏み込むことなどできない。理解できるできないの問題以前に、シグナスは自分の心に越えられない壁を作っているからだ。

 桜井を突き放すと、シグナスはツリーハウスの中へ戻る。彼は手すりにもたれかかったまま、肩を落とす。

 ベランダには丁度、くつろげそうなロッキングチェアが置かれていた。彼は力なくそこに座り込み、ゆらゆらとした揺れに身を任せる。次に瞬きをした時には毛布がかけられ、既に陽が昇っていた。

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