第5章第4節「神に見棄てられた土地」

 フォルテシモ宮殿の大広間にある巨大なツリーハウス。レイヴェスナによる特別な認可によって設置を許されたそれは、シグナスが率いる魔法結社『エンジェルラダー』の拠点でもある。もしも彼女に用事があるのなら、ツリーハウスに訪れ郵便受けに手紙を入れるか、ノックをすればいい。大抵の場合、彼女はツリーハウスにいるしいなくとも堕天使のヴェロニカが留守番をしている。

 何せ、シグナスはアルカディアの広い土地の中でツリーハウス以外の居場所を持たないのだから。

 世界に大いなる秩序と大いなる混沌をもたらした魔法。その発端となったユリウス・フリゲートは、アルカディアではレミューリアを滅ぼした大罪人としても知られる。それゆえに逆賊となじられることも少なくなく、実の娘であるシグナスはそれを一身に背負っていた。

 尤も、人々は魔法によって生活を豊かにしたのは事実であり、味方が一人もいないわけでもない。

 ルキナ・アルベール・ラナンキュラスがツリーハウスの扉をノックすると、扉が開きっぱなしなことに気づく。彼はシグナスを探しにきたのだが、予想通り中にいるらしく隙間から背中が見えた。

 ノックの音を無視しているのかどうか、彼女は一切反応しない。

「シグナス? 入るよ?」

 返事はなし。

 ルキナは小さくため息を吐きながら、開きかかった扉を開いて中へ入る。振り返って閉めるときちんと閉まり、建て付けに問題があるわけではないらしい。シグナスが扉を開きっぱなしにするなんてことは滅多にないこと。それを知っていたルキナは、心配げに彼女の背中を見つめる。

 どうやら愛用のクロスボウを手入れしているらしい。よほど夢中になっているのか、ルキナには一言も声をかけなかった。


「……エージェント桜井を助け出してくれたんだってね」

 このまま黙っていても仕方なく思い、ゆっくりと会話を切り出す。すると、思いの外早く素っ気ない言葉が返された。


「アルカディアの大義のためだ。客人に何かあれば、クレイドルどころかラストリゾートまで敵に回すことになる」

 シグナスはまだ幼い身でありながら、多くのことを成している。それは彼女の責任感からか、ユリウスの娘という矜持からか。彼女は桜井の付き添い人としての務めを果たし、終末論の実現を目論んだアズエラを止め、クレイドルの手に落ちた桜井を救い出した。

 アルカディアを守護する騎士としての称号を持っていたルキナ顔負けの偉業だ。


「感謝するよ。本当にね」


 その時、シグナスは横を向いた。決してこちらを振り向いたわけではなく、棚にあった魔法工具を取るためだ。しかし、彼女のふっくらとした頬に切り傷があったのを、ルキナは見逃さなかった。

「シグナス。怪我をしたのか?」

「かすり傷だ」

 即答され、彼女は傷を気にも留めていない。おそらく適当な処置もしていないだろう。

 ルキナは知る由もないが、ワルキューレから脱出する際に先鋒プレデターに囲まれたことで、遠方からの狙撃に気づくのが遅れ傷を負ってしまったのだ。

「放っておいたら駄目だ。見せてごらん」

 言って、彼はソファの下に隠して置いてあった救急箱を取り出す。彼が隠し場所を知っていたのは、シグナスが幼い頃からずっとそこに置いていたからだ。

 救急箱を持ってシグナスの隣へ向かい、作業台に箱を乗せる。と、

「余計なお世話だ。そうやって子ども扱いして父親気取りか? 見苦しい」

 冷たく突っぱね、ルキナの顔を見ようともしない。その様子を見て、彼は救急箱を開けようとした手を止め、情けなくシグナスを見下ろす。

 彼女にとって、ルキナは失踪した母の代わり──つまり義理の父親のような存在だった。気難しい性格のシグナスは世間では逆賊と呼ばれる母を誇りに思っている。その一方で、母以外のものを受け入れようともしなかった。

 当然、ルキナのことも例外ではない。それでも彼は親身になって接するように努力してきた。だが二人の関係は他人行儀に留まり、今日までそれ以上に踏み込むことができていない。

「ごめん。僕がユリウス卿の代わりにはなれないのは分かってるつもりだよ。でも」

「御託はもううんざりだ……!」

 ダン! と工具を持った手を机に叩きつける。堪忍袋の緒が切れた彼女は次いで捲し立てる。

「お前も他の連中のように罵ればいいじゃないか。災いをもたらす逆賊の娘とな。恩着せがましく私の面倒を見たのも大方、レイヴェスナの言いつけだろう。違うか?」

 彼女の剣幕は相手を追い詰めているようで、その実自分を傷つけてもいる。彼女は一日の中で普段なら訪れない場所へ向かい、罵詈雑言を浴びせられた。そのことを知らないルキナでさえ、シグナスが酷く追い詰められているのは一目瞭然だった。

 加えて言えば、本来のシグナスはここまで攻撃的で荒んでいたわけではない。彼女がこうならざるを得なかったのは、相応の理由がある。

「僕は……僕は君の味方だ。何があってもね」

 邪気の込められた言葉を受け止めてなお、ルキナは怯むことはなかった。たとえ彼女の虹色の瞳にどう映ろうと、彼は気にしない。どれだけ憐れんだ目で見つめられ貶されたとして、シグナスはその比にならない宿命を抱えているのだ。

 ガランと工具を机に投げ捨て、クロスボウを光に変えるシグナス。彼女はそのまま立ち上がり、ルキナとすれ違うと同時に恨めしげに呟く。

「いつまでも仮初めの現実を見ていればいい。私は理想に惑わされない」

 離れていくシグナスの背中を、ルキナは呼び止めることができなかった。ただ最後に、彼女は扉に手をかけてツリーハウスから出る手前で、危機感を煽る忠告を残した。

「この土地がいったいいくつの真実を埋めてできているのか、ゆめゆめ忘れないことだ」

 バタンと扉が閉まり、ルキナはツリーハウスに一人残された。彼女が残した言葉の意味は、彼に確かな迷いを生んだ。

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