第1章第5節「立てかけられた天への梯子」

 桜井はアルカディアに来て初めて、自らの意思で足を前へ運んだ。ただ先導されるのではなく、招聘された客人として女王と謁見するために。

 扉の前まで来て、一度足を止めると深い深呼吸をする。二度、三度と繰り返し空気がシンと静まりかえっていることに気づく。自分の心臓の音さえ聞こえてきそうな静寂。彼はそれを打ち破る意味でも、さっさと扉をノックしようとした。

 ────しかし、桜井の手が扉に触れるより前に扉は一人手に開け放たれた。客人を迎え入れるように開かれた扉の先にはさらに扉があり、ルキナに言われたことを思い出す。扉を二枚超えた先に女王が待っている。すっかり頭から抜けていたが、これではノックも意味がなかっただろう。

 とはいえ、扉は二枚とも続けざまに開け放たれた。女王は既に気づいていると、桜井には確信があった。なぜなら、月城財閥つきしろざいばつの屋敷でも似たような歓迎をされたからだ。あの時、財閥の御曹司である月城時成つきしろときなりは気取った魔法を使っていたが、どうやらやり方としては間違っていなかったようだ。

 脳裏を過ぎる雑念を振り払い、桜井は部屋の奥へとゆっくり進んでいく。そこは天井からシャンデリアが吊り下げられた優雅な個室になっていて、中央には完璧に磨き抜かれたテーブルとイスが置かれている。そして例外なく壁には植物が伝っていて、たくさんの蕾を形作っていた。そして窓辺ではカーテンが靡いており、向こう側に立つ者の影を映し出す。

 桜井は彼女こそが自らを招聘したアルカディアの女王であると思い、目を凝らして姿を見ようとする。同時に、窓から吹き込んでいた風が弱まり華奢なシルエットは真の姿を現した。

「ごきげんよう、お初にお目にかかります。わたくしが、この魔法郷アルカディアの女王、レイヴェスナ・クレッシェンドと申しますわ。どうかお見知り置きを」

 白と黒を基調にしたドレスの裾を摘み、お辞儀をする。垂れ下がる長く美しいストロベリーブロンドの髪、宝石の如く煌びやかな翠の瞳、身に纏う浮世離れした雰囲気。レイヴェスナ・クレッシェンド。アルカディアでは絶世の美女と囁かれる女王の姿を前に、桜井はたじろぎながらも名を名乗る。

「ラストリゾートから来た桜井です。えっと……あなたのことはさっき彼から……」

 桜井が国のトップと会うのは何も初めてではない。ラストリゾート総帥であるミスター・ラヴオールは、DSRのトップでもあるゆえに量子通信で顔を合わせることがあった。確かにラヴオールとの面会でも最初は圧倒されたが、仮想空間ということもあってかいくらか割り切ることができた。何せ、ラヴオールは誰も現実で会ったことがないために架空の存在だとも噂されている。

 しかし、今目の前にいるレイヴェスナは違う。現実に彼女は立っているし、高貴な雰囲気は一般人に出せるものではない。だからこそ、彼はすっかり圧倒されていた。

「ふふっ、ルキナから聞いたのですか? お恥ずかしい限りです」

 彼が言わんとしていることを理解したのか、レイヴェスナは目を伏せつつも言う。今ならルキナが言っていたことが真実だと、素直に飲み込めるような気がした。

「いえ滅相もない……私は、……お会いできて光栄です」

 畏まらずにと言われたが、背筋は強張ったまま。意識していることを抜きにしても、自然とそうさせる威厳を彼女は持っているのだろう。

 桜井はなるべく失礼のないように振る舞おうと努力した。レイヴェスナのように貴族らしい雰囲気の人物とは接したことがない。上手く振る舞えているかは分からないが、レイヴェスナが彼を注意することはなかった。代わりに、彼女は微笑んだままふと横を向く。彼女の視線の先を追うと、窓から伸びる植物の蔦とまだ咲いていない蕾たちがあった。

「貴方が来られると聞いて、歓迎の準備を進めてきました。お花たちもそろそろ咲く頃合だと思ったのですが……私が思っていたより早くいらっしゃいましたね。もちろん、これは嬉しい誤算ですよ?」

 彼女が話している間にも、桜井は目を奪われ続けていた。彼女の雰囲気や容姿ではなく、その指先。レイヴェスナが繊細な動きで指を動かすと、蕾だったはずのそれらは瞬く間に花を咲かせたのだ。まるで時間を早送りにしたかのような光景に、桜井は自分の目を疑った。

「アルカディアは貴方を歓迎致しますわ、エージェント桜井」

 色取り取りの花を咲かせたレイヴェスナは、再び桜井へ上品に微笑みかける。その瞳が淡い光を湛えているのを見て、桜井は思い出した。ルキナが言っていた通り、彼女はアルカディア女王であると同時に超能力者でもあるのだ。今の花を咲かせた芸当も、おそらくは彼女の力によるものだろう。

 アルカディアの女王と超能力者。偉大な二つの面を見た桜井は、自分という存在がひどく小さく思えた。

「あー、それで……えーと」

 魔法生命体レリーフに対処するために、彼はアルカディアに招聘された。覆ることのない前提をも一時の間忘れさせる出来事。思い返してみれば、アルカディアに来てからそういった驚きの連続だった。

 感嘆のあまり桜井が言葉を詰まらせていると、レイヴェスナはハッとしたように言う。

「ごめんなさい。喉が渇いているようですね。今、お茶を淹れて差し上げましょう」

 勘違いであることを言い出す間もなく、彼女は右手を軽く上にかざす。すると天井を張っていた蔦が伸び始め、軽やかに枝葉を千切り取った。それから流れるような動作でコップの置かれたテーブルへ向かった。何が何やら桜井の理解は追いついていないが、どうやらお茶を淹れてくれるらしい。

「あー、……ありがとう、ございます」

 今さら勘違いだと言い出せるわけもなく、桜井はひとまず感謝を表す。

「遠慮なさらず、なんでもお申し付けください。貴方は私の大切なお客人ですから、無碍には致しませんわ」

 絹糸のような声を紡ぎながら、彼女は枝葉から適当な葉を摘む。それから摘み取った葉を握りこみ、次に開いた時にはすりつぶされた茶葉となってコップへ吸い込まれていく。彼女がポットに触れると、いつの間にか入っていた熱湯が注がれた。

「風の便りに聞いたのですが、ポーラ・ケルベロスの身柄を確保されたとか?」

 驚きの連続に良い意味で気が滅入りそうだったが、一周回って落ち着きを取り戻しつつあった桜井。お茶に砂糖を入れる片手間に雑談する感覚で尋ねてきたレイヴェスナの問いに、彼は冷静に答えることができた。

「えぇ、そうです。でも厳密に言えば、実際に逮捕したのは私ではなく私の仲間です。彼らがいなければ確保には至らなかった」

 事実、当時の桜井は月城財閥が抱える『宝物庫』の調査に駆り出されていた。人の手柄を横取りしたいわけではなかった桜井は、あくまで自分ではないと断った。それでもポーラ・ケルベロスという人物がラストリゾートで何をしたのか、それに関して無関係とは言えない。彼女は世界魔法史博物館から流出した魔装を使って自らの復讐を遂げるため、一人の少女を魔人に覚醒させたのだ。

「貴方がたのいるラストリゾートを襲撃した彼女は、アルカディアに古くから栄えてきたケルベロス伯爵家の三姉妹の長女です。残念なことに、伯爵家は私やアルカディアが掲げる理想とは相容れず、ついにはこの土地と袂を分かち、クレイドルへ寝返りました」

 最初にポーラがアルカディアの貴族だということを知った時も、複雑な事態になることは予期していた。事後に伝え聞いた獄楽都市クレイドルへの復讐についても、DSRの手に負える問題ではない。アルカディアとクレイドルの問題だ。レイヴェスナの言葉を聞く限りでは、想像より事態が複雑なのは分かる。

 彼女はたった今出来上がったお茶の入ったコップを持ち上げ、その香りを嗅いで味見とする。

「しかし、私たちがまず考えるべきなのは獄楽都市クレイドルのことではありませんわ。エージェント桜井、貴方を魔法郷アルカディアへ招聘した理由は、魔法生命体レリーフの対処に協力してほしいからです」

 そう。前提として桜井とレイヴェスナの間にあるのは、レリーフへの対策である。レリーフを倒した桜井と、今もレリーフが活動するらしいアルカディア。両者が手を組む理由は一つしかない。とはいえ、彼には一つだけ気になることがあった。

 レイヴェスナから差し出されたコップとソーサーを受け取り、一度口をつけていた桜井。鼻腔を潤す香りのおかげか緊張もほぐれ、彼は次のように切り出した。

「お言葉かもしれませんが、DSRのエージェントとして一つだけ言わせてください」

 それがお茶の感想でないことに不満も表さず、「何なりと」と続きを促すレイヴェスナ。

「飛空船から見ましたが、アルカディアの街並みの殆どは魔法植物に覆われていました。これは魔胞侵食まほうしんしょくといって、建物を老朽化させたりレリーフを生み出すきっかけにもなる。ラストリゾートでは考えられない光景ですよ」

 言うまでもなく、これまでラストリゾートでは魔胞侵食による災害が多く発生している。そしてそれが野放しにされているアルカディアから、レリーフの対処を依頼される。桜井から言わせれば、原因はすぐにでも推測できてしまう。

「では、あの美しく逞しい自然を排除すべきだと、貴方は仰るのですか?」

 彼の言わんとすることを察したレイヴェスナは、窓から見える景色に目をやった。その眼差しには深い慈しみが込められていて、桜井は言葉を慎んだ。

「そういうわけじゃ……ただ、野放しにするのなら相応の代償を求められる。レリーフだって、その内の一つに過ぎないんです……」

 代償。現に、桜井はそれを支払った上でここに立っている。彼は心の水面に浮き出てきた言葉を口にしながら、何か酔う感覚に陥った。なんと言うべきか、他人の言葉が自分の口から出てきた──そんな違和感。不思議な感覚を飲み干そうと、彼はお茶の入ったコップを傾けた。

 対して、言葉を受けたレイヴェスナは関心した口ぶりで答える。

「流石と言うべきでしょうか、貴方の仰る通りです。──このアルカディアに魔法という新たな秩序がもたらされた時、私たちは選択しなければなりませんでした。魔法になす術もなく淘汰されるか、奇跡を信じ魔法との調和を願うか。そして、私たちは調和の道を選んだのですわ」

 淘汰と調和。不条理を受け入れるか、奇跡を願うか。

 それを選択することについて、桜井はに思えた。同時に、彼にとって理想的なのは調和を取ること──奇跡を起こすことであり、レイヴェスナの言葉と絶妙に符合する。

「もちろん、魔法との調和は理想に過ぎません。ですが、調和の道を選んだからこそ……いえ、奇跡が起きたからこそ今のアルカディアという理想郷があるのです。不可能であると分かっていながら理想を望んだ、民の願いを無碍にしたくはありません。もちろん、これは私のわがままでもあります。今でこそ奇跡的に理想が成り立っていますが、レリーフはそれを脅かしているのですわ」

 おそらくレイヴェスナにとってアルカディアは正に理想郷なのだろう。実際、先ほど目にした神秘的な景色はあり得ないほどに調和が保たれていた。その理想を叶えるために彼女が何をしたのか、桜井には想像もつかない。

「エージェント桜井。どうか、アルカディアを脅かすレリーフの撃退にご協力いただけないでしょうか。この理想郷が、理想であるためにも」

 それでも分かるのは一つ。

 理想を維持するためならば、魔法生命体レリーフとも戦う意志があるということ。

「……分かりました」

 桜井もまた、奇跡を信じたことがある身の上。さらに言えば、アルカディアの美しさはレリーフの為に犠牲にするにはあまりに惜しい。不可能と知りながらも、わがままに理想を求める気持ちはよく分かる。今や奇跡を無理矢理に叶えてしまう力さえあるのだから、レイヴェスナの理想論であっても不可能ではないはずだ。

「ぜひ、力にならせてください」

 申し出を受け入れてくれたことで、レイヴェスナはホッと胸を撫で下ろす。とはいえ、事態は何も解決していない。むしろ、ここからが本題だ。まだ序の口に過ぎないということを忘れず、二人は決意を新たに頷き合う。

 魔法産業革命以後、ラストリゾートとアルカディアが協力するまたの機会。新垣晴人あらがきはるととライミング条約がきっかけとなった、歴史的な瞬間だ。

「こちらへいらしてください。詳しいことは評議会でお話ししましょう」

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