第2章第5節「地続きの天国と地獄」
エンジェルラダーの拠点であるツリーハウスへ戻っても、シグナスは口を固く閉ざしたまま。魔法調律連盟の本拠地である村へ訪れたことで、彼女には多くの偏見と誤解がかけられていることが分かった。元から仲間であるセレサやヴェロニカはともかく、桜井は何が真実で何がそうでないかを決めあぐねている。が、シグナスはザドが告げた罪と罰について弁明をする気はないようだ。
桜井は立場のことも踏まえた上で、彼女の味方になることを選んだ。今後も彼女と行動を共にすることになる。その中で彼女のことを知る機会があればいいのだが。単に聞けば済む話だとはいえ、まだ年端も行かない少女である。今の桜井にできることはない。
シグナスはツリーハウスの扉を操作し、魔法陣に浮かんだ針を『テノール地区』から『バリトン地区』へ合わせる。そこからさらに細かく調整すると、勢いよく扉を開け放った。
バリトン地区にあるファンタジアの森。ユレケラスの大樹ほどのインパクトはないが、そこはより自然に溢れた景色が広がっていた。フォルテシモ宮殿のあったソプラノ地区は自然と文明が共生する奇跡を体現していたが、ここはその天秤が自然へと傾いている。
ツリーハウスから降り立ったその場所は丘になっていて、眼下に深い森を見渡すことができた。森には発光する花が咲いているのか、神秘的に煌めく草原が見えた。
上空を見上げれば、ラストリゾートでも見られる光る星雲やオーロラが輝く。それらの正体である魔導雲はラストリゾートで見るものよりかなり分厚く、陽の光をほとんど遮ってしまっていた。そのため時刻は夕方でも夜間のように暗く、雲を割いて落ちる無数の流れ星が際立っている。
「良い眺めでしょ? ここにツリーハウスを建てたのも、きっとボスが気に入ったからだと思います。よくベランダで黄昏てるので」
セレサが前にいるシグナスに聞こえないように耳打ちしてくる。彼女が気に入るというのも納得の美しさだ。
「自然としか波長が合わないなんて、ボスも可哀想にねえ」
景色に魅入っていた桜井の耳にヴェロニカの言葉が入ってくると、ふとした疑問を思い出した。
「そういえばずっと気になってたんだけど、波長が合う合わないってのはアルカディアじゃ普通の文化なのか?」
「そう。定番の挨拶というか、お世辞というか。多分、アルカディアの歴史に音楽が関係しているからだと思いますけど」
アルカディアの人々が口々にする波長という言葉。当然のように使われていることから、彼もそれが文化的なものに由来することを察してはいた。
「あたしらもヨソから来たから、とっつきにくい気持ちは分かるけど慣れるっきゃないね」
言われて気づいたが、セレサとヴェロニカも厳密にはアルカディア人ではない。堕天使である彼女たちも、桜井と同じような違和感を感じていたのだろう。
他愛もない話をしながら、丘から降りた一行は森の入り口へとやってきた。
デュナミスからの情報によれば、レリーフ・バンビはここで活動しているという。人も住んでいない森に何の用があるのかは疑問だが、デュナミスはさりげない警告も残していた。森には多くの危険が潜んでいると。
それもそのはず。これらの自然は魔胞侵食による災害に他ならず、レリーフが出現する可能性もある。どれだけ美しい景色だろうと、目を奪われてはいけない。
気を引き締めて、森の中へと入っていく一行。
ファンタジアの森はその名の通り幻想的な印象を受ける場所。実際に入ってみても、印象は覆るどころかより強いものへ昇華された。ソプラノ地区のラストリゾート大使館やフォルテシモ大聖堂でも見た生き物たちがより自由に暮らしているのだ。光る鱗粉を残して飛び回る光る蝶や、ふわふわと宙を浮かぶクラゲ、優雅に空を泳ぐ鯉のような魔法生物たち。他にもワニのような顎を持つ植物や、鞭のようにしなった木など目を引くものばかり。ラストリゾート記念公園でも近い生息圏が広がっているが、広大さは比較にならない。
地面や倒木から生えているキノコはカラフルで、光を放つ動植物も少なくない。それゆえか、暗さは全くと言っていいほど感じられなかった。
「ラストリゾートじゃ魔法植物はすぐに焼き払うんだ。レリーフの発生に繋がるからな。でも、滅菌しないことで得られるものが、こうも美しいなんてな」
思わず感動を口にした桜井に対し、耳元で囁く声が返事をした。
「あたしも気に入ったよ。なんていうかがっしりしてるから座り心地良いし、セレサみたいに滑ることもないし高くて見晴らしがいいし最高だよ」
同じ感動でもあまりに食い違う意見。何を隠そう、桜井の肩に座っているヴェロニカは森ではなく彼の肩について話しているのだ。どうやらかなり気に入ったらしく、森に入ってからずっとそこにいる。
「もう戻ってこなくていいですからね。ヴェロニカが肩に乗ってると痒くて仕方ないし」
と、ヴェロニカを肩に乗せた桜井を抜かしていくすれ違いざま、セレサはブツブツと呟く。どこか不機嫌そうに見えるセレサだが、ヴェロニカを取られて妬んでいるのだろうか。レミューリアのお転婆堕天使といった印象の二人だが、意外と可愛らしい面もあるのかもしれない。
「すぐおならするし」
そう思いかけたのも束の間、桜井はセレサの一言を聞いて考えを改めた。
「なぁヴェロニカ」
「ん、どったの?」
「すぐに降りてもらえるか?」
神秘的な景色が目を楽しませた甲斐あってか、森の深いところまで歩いてきた一行。先導していたシグナスが立ち止まったことで、桜井たちは行き止まりに差し掛かったことに気づいた。
「行き止まりか」
地中から突き出た頑丈な岩が一帯を塞いでおり、とても乗り越えられる高さでもない。回り道をするほかなさそうだが、桜井はふと気になることを聞いた。
「ところでレリーフがいそうな場所の目星はついてるのか? 当てもなくうろついてるわけじゃないだろ?」
残念なことに、デュナミスは森の具体的な場所については話さなかった。セレサとヴェロニカは置いておくとして、シグナスの性格を考えれば目指す場所があるはず。根拠があるわけでもなくそう信じる桜井をよそに、シグナスは前へ出て岩肌に手をかざした。
すると、岩の表面から淡い光が浮かび上がり、短い文言を形作った。
『許可なき者の立ち入りを禁じる』
その文言が何を意味するかは一目瞭然だったが、シグナスは強く舌打ちをした。彼女の態度から察するに、何か不都合があるのだろうか。
「封印か?」
「そんなとこですね。ここはもともと貴族領ですから、特定の人物しか出入りできない封印が多いんです。この中に領地を持つ公爵とか伯爵、そいつらに許可を貰わないと」
答えてくれたセレサは肩を竦めている。貴族といえばコンツェルト評議会の評議員たちを思い浮かべるが、この四人の中に準ずる人物はいるだろうか。確かシグナスは評議会に議席を持たないと言われていたはずだが……。
「あたしらはツイてるよ桜井。ボスがいなかったら入れなかったもん」
セレサの肩で自慢げに言うヴェロニカに言われ、桜井はシグナスを見る。彼女は既に岩から手を離し、ゆっくりと手を下から上へ動かしていた。まるで、流麗な舞を踊るように。
彼女が手を動かすに連れて、森が低い地鳴りを響かせる。次いでカラカラという音と共に小石が持ち上がり、枯れ葉が列をなす。ついには岩が持ち上がってアーチ状になると、門を通った枯れ葉が色づいていく。鮮やかな落ち葉はシグナスが手を下げるのと同時に、枯れ木へと集まり生命を吹き返した。
魔法調律連盟とは違い、シグナスを歓迎するファンタジアの森。反して彼女の気分は晴れやかなものではなく、先ほどよりもやや重い足取りで門を潜る。
セレサとヴェロニカ、桜井もまた門を潜り終えると再び岩と小石になって崩れ落ちてしまった。だが桜井は後ろを気にかける余裕はなく、森の新たな一面に目を奪われていた。
地面にはかつて舗装されていた道の痕跡があり、周囲には錆びついた街灯が立ち並んでいる。風化した標識には植物が絡みつき、色褪せた車も蔦と葉に覆われていた。先ほどまでの純粋な森からは一転し、そこは確かに人々の生活圏の面影が残されている。
即ち、魔胞侵食の猛威に飲み込まれてしまったのだろう。
「この森はもしかして、元々は人が住む街だったのか?」
人が消えてから百年は経っていそうな閑散とした景観。寂しさや不安を抱きそうなものだが、文明を自然へと還していく緑には不思議な安心感を覚えさせられる。レイヴェスナ・クレッシェンドはこの美しさの為に力を尽くしているというが、やはり魔胞侵食の被害は到底包み隠せるものでもない。
「さっきも言ったけど、ここは貴族領だったんです。魔法産業革命の前後で魔法植物に飲み込まれてしまって、ご覧の有様。ここに住んでいた貴族たちはみな没落して、ルズティカーナ村に流れるか、バス地区の不毛の砂漠地帯にまで追いやられたんですよ」
「住んでた貴族は、えっとね。アレグレッツァ伯爵でしょ、リーズレー男爵でしょ。あとはー、ケルベロス家でしょ、それからルジン……るじ、……あー、思い出したいけど舌千切れそう」
セレサに続いてヴェロニカは没落した貴族の名前を挙げてくれた。中でもケルベロスという名前には聞き覚えがある。ラストリゾートに現れたテロリスト、ポーラ・ケルベロス。彼女の来歴について資料を調べる余裕もなくアルカディアへ発ったが、おそらく彼女にも複雑な過去がありそうだ。
「……」
自然豊かなファンタジアの森。人々の住処を奪う魔胞侵食。今でこそ自然に還されてしまったものの、この景色がもたらす感動は得難いもの。
思うところがあれど、今はレリーフを探す為に桜井はシグナスの後を追う。
少し進むと貴族たちが住んでいたであろう華美な館の残骸が多く残されていた。尤もどれだけ豪勢な装飾があろうと、今ではほとんどが土へ還されてしまっている。朽ち果てた雄鶏のシンボルと『リーズレー』と記された表札には、もはや貴族の尊厳も残っていない。
さらに桜井は不思議とある植物に目を惹きつけられた。
いや、それを植物と一括りにして良いのだろうか。
傷ついた白いアーチ状の枝が並んだ鉢──それは肋骨。
朽ちて穴の空いた白いお椀状の鉢──それは頭蓋骨。
打ち捨てられた人骨には草花が生い茂っていて、それはまるで内臓のよう。
「…………」
こうした魔胞侵食の被害者を見るのは初めてではない。だがいつ見ても、これは魔法がもたらす代償を思い出させてくれる。
豊かで色鮮やかな自然といえど、命まで奪われてはいけないと。
自然が手向けた花に彩られた無数の死骸が散乱するファンタジアの森。彼らがかつて暮らしていたであろう瓦礫が作る家を見ると、新しく住み着いたであろう住人の姿があった。
「あれは……DSRで見たことがあるな」
崩れかかった館の中で眠っている大型の獣。それは獅子に似た屈強な肉体に牡鹿の角を持つ特徴的な動物だった。ラストリゾート記念公園でも生息しており、DSRでも何度か捕獲されている。もちろん、桜井はまだ担当したことはなく名前も覚えていない。
「グラズミーディアですね。気性が荒いからそっとしときましょう。私の故郷でも、あれの騎兵隊になると五体満足じゃいられないって聞きますから」
セレサの話を聞いて、捕獲任務にはつかないことを決心する桜井。というより、担当したエージェントはどれほどの胆力があったのかと戦々恐々する。
そうこうしていると、一行は開けた場所に出ていた。貴族領の全体からしても奥の方に差し掛かり、何か重要な場所なことが予測できる。とはいえ魔力による風化は凄まじく、パッと見るだけでは全て同じ栄華の亡骸でしかない。
中央に音もなく佇む風化した屋敷。その前に立ち尽くすシグナスに追いつくと、彼女は小さく呟いた。
「私の実家だ」
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