第3章第2節「淘汰されゆく可能性」
「ここはアルカディアでも最大の蔵書を誇っていて、アタシもまだ全部は読めていないの。でもムジカリリスにまつわる逸話なら、いくつかの書籍に記載があったはずよ」
そう言うニュルンガムは、桜井とデュナミスを連れて司書室を出ていた。そこでようやく、桜井は魔導図書館がどういった場所かを目の当たりにする。
吹き抜けになった高い天井に吊り下げられた複数のシャンデリアによって照らされた広大な空間。空間を仕切る壁はほとんどが本棚になっていて、あろうことか天井さえも本棚になっている。道や階段は不自然に屈折し、見渡す限りの本が所狭しと並べられている。
もちろん、魔法に纏わる本ばかりが置いてあるわけではない。子ども向けの絵本や料理のレシピ本、動物図鑑など、多種多様な蔵書が取り揃えられている。貴族だけでなく庶民が利用するというのも頷ける話だ。
前述したようにこの図書館は物理法則を無視している。天井には逆さまの本棚があり、階段も逆さま。にも関わらず、利用する人々は足をつけた方が絶対的に地面であるかのように、縦横無尽に歩き回っている。
曲がりくねった迷路のような景色は目が回りそうだが、ニュルンガムは慣れた足取りで奥へ進んでいく。桜井は慣れない足取りでついていくと、ついにはシャンデリアが吊り下がっているはずの天井に足をつけていた。
上を向くと、先ほど自分たちが入ってきた出入り口が見える。何とも慣れないが、感覚は正常で逆立ちしている感覚はない。隅にはイスと机があり、ご丁寧にくつろげるスペースもあった。
「ちょっと待ってなさい」
ニュルンガムはそう言うと、杖を呼び出して斜めに座る。そのまま浮き上がると斜めになった足場へ向かって本棚を探し始めた。
ひとまず座って待つことにした桜井とデュナミスは、隅にあったソファに腰掛ける。本来の床を頭にして座るというのもおかしな話だ。とはいっても、建物の大部分を貫いて築かれた空間のおかげかすぐ真上が地面というわけではない。数十メートルも離れていれば、自然とそれを地面ではなく天井に置き換えることができた。
「お待たせ」
そして、分厚い書籍を抱えたニュルンガムが戻ってきた。かなり古いものなのかカバーやページには劣化が見られ、色褪せた表紙には『レミューリア生息大全 著者ノーチラス・グランチェスター』と彫られているのが見えた。
彼女は杖から降りずに足を組み、片手で本を開く。魔法によってページは次々と捲られていき、やがてあるページで止まった。
そうして咳払いをひとつして、記された事柄について私見を交えて読み上げる。
「ムジカリリスは、レミューリアの魔界にのみ生息する魔法植物の全般を指す。──黄金比を外れし調べ、大地と青空を詰り、地平線を越え、神の知らざる奇跡を育む──。要するに、調律されていない不協和音の旋律は世界を壊し、神の預かり知らない奇跡を生む……分かりやすく言えば、そんなところね」
親切心からか噛み砕いた説明をしてくれたが、ムジカリリスについてまだよく分からない。不協和音というのは分かるが、桜井が原文から読み取るのは難しい。
考えを巡らせる中で、ニュルンガムはムジカリリスにまつわる逸話について話し始めた。
「問題はここからよ。かつて、ラヴドゥームという神はこの植物を友好の証として天界へ贈ったそうよ。最初は天界の神々も聞いたことのない旋律に魅了された。だけど次第に昏睡状態に陥ってしまった。天界の神々にとって、ムジカリリスの旋律は不協和音そのものだったんでしょうね」
桜井からすればそれは現実の歴史というよりは、あくまでも神話の出来事という印象で聞いていた。いずれにせよ、逸話の内容はルズティカーナ村で起きた事件と完全に合致する。
「天界における美しい旋律と、魔界における美しい旋律は違う。アタシたちもそれぞれの音を持つように、波長の合う合わないがあるのよ」
セレサも同じようなことを言っていた。やはりアルカディアでは一般的な考えなのだろうが、神話の原文よりは理解しやすい。
だがニュルンガムは説明に慣れていないのか、どこかぶっきらぼうだ。何とか理解しようと考える桜井に、デュナミスが今一度まとめを話した。
「楽器がそれぞれの音色を持つように、人間もまた独自の音色を持つ。ムジカリリスはそれらの音色を乱し、幻惑し、死に至らしめる。レミューリア神族はおろか大抵の生命を。もしかするとレイヴェスナ卿を弑することも……或いは」
「まさか本気?」
間髪入れずに疑念を口にしたニュルンガム。なぜならデュナミスの推察が正しければ、この問題はルズティカーナ村の事件だけに留まらないからだ。
「アイツを陥れるだけじゃ飽き足らず、本気でアルカディアを落とすつもりだっての?」
アルカディアの陥落。そんな終末論が現実味を帯びてきたことに焦りを覚えたのは、桜井も同じだった。
「村での事件は、その実験……なくはない話だな」
ニュルンガムよりも先に終末論を聞かされていた桜井だったが、彼はあくまで終末論としか捉えていなかった。だがもしそれが実現できることであるならば、事情は変わってくる。ありえないと考えていた可能性が現実だったことなど、今の彼にとって珍しいことでもない。
そこへ、デュナミスは一歩引いた視点で可能性と現実を語った。
「ルズティカーナ村が前座に過ぎないのなら、より大きなことを企んでいると考えるのが自然よ。ムジカリリスはレミューリア神族はもちろん、人間にも影響する。ファンタジアの森から人が追い出された一因も、そこにあるのだから」
桜井は魔法文明としてのアルカディアの歴史を知らない。ファンタジアの森がどういった経緯で生まれたのかも、デュナミスから初めて耳にした。
不協和音の旋律を奏でるムジカリリスと、魔胞侵食によって人が住めなくなったファンタジアの森。そしてレミューリア神族を昏倒させたという逸話。一連の事実を組み合わせると、素人目線でも共通点が見えてくる。
「そうか……アルカディア全体にばら撒く気だ。この土地の全てをあの森みたいにするために。あいつらの目的がアルカディアの陥落だっていうのにも繋がる」
ファンタジアの森から人が消えたのは文字通りに魔胞侵食による自然の猛威に晒されてのこと。そこにはムジカリリスという楽器植物が自生し、森が広がるのを助けた。
アズエラはバンビにムジカリリスの花を集めさせ、種を複製して栽培する。ルズティカーナ村を標的にしたのは、効能を確かめるため。最後にそれをアルカディアに散布する。今度は全員を二度と目覚めさせないようにするために。
レミューリアでの逸話と、ファンタジアの森での現実を組み合わせたのだ。
パタン、と本を閉じたニュルンガム。彼女は桜井の推理を聞くと認めたくないと言った様子で眉をひそめて言った。
「無謀だわ。アタシだってその可能性を考えはしたけど、アルカディアにはレイヴェスナ卿がいらっしゃるのよ? 卿は超能力者でありながら魔法も使いこなすお方。カヤシーロリスの胞子如きに屈するはずがないわ。敵の計画はあまりにお粗末よ」
言われて思い出したが、レイヴェスナ・クレッシェンドはアルカディアの女王であり超能力者。であるならば、ムジカリリスの散布も跳ね除けるほどの力があったとしておかしくない。本物の神話の住人ですら抗えないという不協和音。果たして超能力者は神話すら超越しているのだろうか。
桜井は純粋な興味を半々に問いかける。
「そういえば、あの人ってどういう力を持ってるんだ? 俺の友達にも超能力者がいるけど、テレキネシスが使えてさ。同じ感じなのか?」
桜井の身の回りには、
一度会ったきりとはいえ、彼女は桜井の目の前で蕾だった花を咲かせたり、新鮮なハーブを用いてお茶を点ててくれた。察するに植物に関する力だろうか。だとしたら所詮は植物に過ぎないムジカリリスもなんとかできるかもしれない。
ニュルンガムの主人でもあるレイヴェスナに関心を向ける桜井だったが、彼女は少し威圧するように声を強めて言う。
「レイヴェスナ卿、もしくはクレッシェンド卿と呼びなさい。軽々しくあの人だなんて貴客とはいえ不敬にも程があるわ」
「悪気はなかったんだ。その、どうにも慣れなくて」
反省する姿勢は十分伝わったのか、ニュルンガムは堪忍するように息を吐く。
「……はぁ、その調子だとそもそも超能力者が何なのかというところから説明した方が良さそうね」
ニュルンガムはデュナミスに助けを求める視線を投げかけたが、わざとらしく首を傾げて見せるだけ。評議会では説明役を免れたが、ここでは腹を括るしかなさそうだ。
「この世界に現れた九人の超能力者たちは、九つに分裂した禁断の果実のカケラによって力を得たとされているわ。禁断の果実はユリウス・フリゲート卿が持っていて、それを九つに分裂させたカケラが九人に宿り、超能力者になった」
禁断の果実という単語は聞き慣れないが、桜井は耳にしたことがあった。ルズティカーナ村でザドがシグナスの母であるユリウスを糾弾する際にも、同じことを口にしていたのだ。ユリウスはレミューリアから禁断の果実を持ち出した、と。
ニュルンガムが言うには、その果実は九つに分裂して超能力者に宿ったという。
「当然、分裂したことでそれぞれに宿った力も異なるわ。中でもレイヴェスナ卿は世界真理を読み解く力を持っているそうよ。超能力と魔法を融合させる偉業を成し遂げたのは世界でも卿ただ一人。卿の師でもあったフリゲート卿もさぞ鼻が高いでしょうね」
ニュルンガムはシグナスの母であるユリウスについて語る時だけ、不本意そうにわざとらしく声色を上擦らせた。彼女がフリゲート家に抱く複雑な感情はともかく、レイヴェスナとユリウスが師弟関係にあったことを踏まえると、女王がシグナスを特別扱いしていたのも腑に落ちる。尊敬する師匠の愛娘なら、どれだけ非難されようと庇うだろう。
「とにかく、もしそんな卿を殺めようとするなら相応の力がいるわ。超能力者と同等の力を得るためには、やっぱり禁断の果実が必要になるはずよ。ムジカリリスなんてたかが知れる花じゃダメ」
世界真理を読み解く力というのが具体的にどういったものかは判然としない。それでもあの花を咲かせた芸当も、力の片鱗に過ぎないと思うと理解の及ぶ話ではなさそうだ。
あまりに大きいスケールの話に、桜井はどこから触れるべきかを悩んでいた。すると、ニュルンガムはどこか遠くを見つめた。本を膝の上に乗せて両手を杖に置き、懐かしむような表情を浮かべる。
「過去にも、超能力者から果実を奪おうとした輩は大勢いたわ。特に……アズガナン連邦の魔法省は、失われた禁断の果実をあの手この手で探し求めた。超能力者の死体を解剖したり、魔法技術を用いて人工的に超能力者を作り出そうとしたり……ま、どれも失敗に終わったんだけどね」
彼女の話には心当たりがある。ラストリゾートの開発には、
あの事件でさえ、繰り返される歴史の一部。桜井がそのことを思い知って目を伏せると、隣にいたデュナミスは予想だにしていなかったことを明かす。
「けれど、その失敗がなければ私たちは生まれていなかった」
「ちょっと待った。それってどういう…?」
決して結びつかないことが結びつく。
だが、それはデュナミスと桜井結都のことではない。
杖に座るニュルンガムは「隠す必要もないわね」とこぼし、周囲に人がいないことを確認してから告白した。
「アタシとデュナミスがそう。アタシたちはアズガナン連邦の魔法省によって造り出された人造人間。アンタにも分かるように言えば、アタシとソイツはレリーフなの」
デュナミスがレリーフであることはさておき、ニュルンガムは自分自身も含めている。つまり、アルカディアにはバンビ、デュナミス、ニュルンガムの三体のレリーフが存在するというのだ。
「混乱するでしょうけど、遅かれ早かれ知るべきことよ」
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