第5章第2節「神に見棄てられた土地」


 魔法郷アルカディアを襲った災厄は過ぎ去った。魔導母艦ワルキューレは彼方へと飛び去り、残存する魔導兵士たちも騎士や楽団員らの活躍によって排除されたのだ。が、美しい風景と人々の心に刻み込まれた傷跡は大きく、決して癒えるものではない。

 戦いによって跡形もなく破壊された建造物が元の形に戻ることはない。

 戦いによって無情にも命を落としてしまった者の命は帰ってこない。

 災厄が過ぎ去ったからといって、人々がすぐに希望を取り戻せるわけなどないのだ。

 全てを奪い尽くされたアルカディア。救いの見えない国土を眺望する女王レイヴェスナ・クレッシェンドは、ゆっくりと目を閉じて大きく息を吸い込む。目の前に広がる景色が夢だと拒もうとするように。

 だが、鼻腔から入ってくるのは破壊の後に残る塵と灰、絶望と死の匂い。それらを吸い込んだ肺にへばりつく痛みから、彼女は苦しげに息を吐いて目を開ける。

 破滅に迎え入れられた景色は、決して夢などではない。

「…………」

 そして、彼女はゆっくりと視線を下ろし、右手に握った懐中時計を見た。

『世界終末時計』。かつての師ユリウス・フリゲートの形見であるそれは、既に正午の数分前を指している。レミューリア神話によれば神々の土地が滅んだ時に正午を指したとされ、今まさにそれを繰り返そうとしているのだ。

 だが、彼女は単なる傍観者ではない。アルカディアの女王であり、アルカディアを理想郷たらしめる存在。

 理想は叶えてしまっては意味がない。理想を願う心こそが、理想を理想たらしめるのだ。

 理想は諦めてしまっては意味がない。理想を希う心こそが、理想を理想たらしめるのだ。

 時計を左手に持ち替えたレイヴェスナは、その終末を指し示さんとする盤面に手をかざす。すると、二本の針は徐々に遡行を始めた。ズレてしまった時計の針を直すようにして。

 彼女の虹色の瞳に映るそれは、奇跡を呼び起こす。

 戦いによって破壊されてしまった数々の建物。街にはその瓦礫が散乱していたが、何らかの力によって持ち上がりゆっくりと移動していく。もはや原型を留めていなかった破片は一つとなって、同じく吸い寄せられていく。砕けていた地面の舗装は元通りになり、倒れていた大木は自ずと立ち上がり植えられた場所へと戻る。無数の瓦礫はそれぞれがそれぞれの場所へと戻っていき、欠けていた屋根や柱を再び形作る。

 市民たちが目撃したのは、アルカディアが命を吹き返したように再生していく街並み。それは時間を巻き戻したような光景で、誰もが目と心を奪われ呆然と見つめることしかできなかった。

 アルカディアに駐在するDSRのエージェントたちも、今ばかりは動きを止めている。だが呆気に取られているわけではなく、御殺陣優杜みたてゆず鶯姫星蘭うぐいすひめせいらんへ思い出したように語りかけた。

「星蘭、時計台でレリーフは見つけたんですか?」

 目の前で起きていることに比べれば、瑣末な質問に聞こえるだろう。だが星蘭を我に返らせるには十分で、彼女は少し間を空けて短く答えた。

「何もなかった」

 目の前で起きているのは疑いようのない奇跡。にも関わらず、優杜は疑り深い表情のままだった。

「そう、ですか」

 ワルキューレの艦砲射撃によって倒壊したはずの時計台はみるみる内に再生している。中にあった鉄筋や敷き詰められた大理石といったものの全てが寸分の狂いもなく、あるべき場所へと戻っていく。もはや破壊の痕跡はどこにもなく、亀裂や傷もまったくない。

 レリーフ・バンビが引き起こした嵐で破壊された自然の景色も戻り、再生した街を緑豊かな自然を覆う。まるで、再会を喜び抱擁を交わすかのように、文明と自然は絶妙なバランスで絡み合いあの神秘的な景観を取り戻す。

 さらに、茫然自失で眺めていた人々の体にも変化があった。

 頭から流れていた血が引いていき触っても痛みがない。腕を流れていた血が引き、裂けていた肘の傷が塞がった。転んで怪我をしていた子どもの擦り傷が治る。民が負っていたあらゆる怪我が完治し、身に起こった奇跡を受けて徐々に笑顔を取り戻していた。

「女神の思し召しだ……」

 起こる奇跡は軽傷者に留まらず、重傷者もその深い傷を癒す。クレイドル軍との戦闘で片腕を失ったり足を折っていた楽団員も、顔からは痛みの色を消して動くようになった手足を嬉しそうに動かしている。

 さらには、瓦礫に埋もれていたはずの死体や、無惨な姿の死者を光が包み込む。切断され転がっていた頭部は胴体へ戻り、瓦礫に潰された肉塊はその形を人へと整えていく。飛び散った血痕や臓物も光によって運ばれ、死者さえも命を吹き返したのだ。

 クレイドル軍との戦闘によって名誉の死を遂げた楽団員が起き上がるのは、ニキータ・ジゼル・ド・ウォルザークも目撃した。楽団員たちは最初こそ動揺していたものの、生き返ったことを知ると仲間同士で抱き合って喜んだ。そんな光景を微笑ましく見守っていたニッキーの元へ、

「隊長!」

 複数の楽団員を連れてやってきたのは、裁判所前で殉職したコリンだった。

「ただいま戻りました」

 敬礼する楽団員たちに、ニッキーもまた笑顔で敬礼を返した。

 もはや、アルカディアを災厄が襲ったと言っても誰も信じたりはしないだろう。レイヴェスナがもたらした奇跡はアルカディアを癒し、いつもと変わらない理想郷としての姿を見せていた。

「こりゃたまげたな……」

 神の御業と呼ぶに相応しい光景を、桜井結都さくらいゆうとはフォルテシモ宮殿から目撃していた。釘付けになっている彼の背後には堕天使のセレサとヴェロニカがいる。二人ともクレイドルと戦っていたらしく、無事に救出された桜井と合流していたのだ。

 人生において、奇跡を目の当たりにすることはそう多くない。アルカディアに訪れて桜井は奇跡的なものをいくつも目にしたが、これほどの規模感は体験したことがなかった。後ろにいる堕天使の存在や神話の現実など、劣って見えてしまうほどだ。

 感銘を受ける桜井の隣に立ったのはセレサ。さしもの彼女も奇跡を目にする機会はそうそうないのか、桜井と同じように景色を見ながら語る。

「レイヴェスナ卿は世界で初めて世界真理を読み解いたお方。あらゆる万物に宿る可能性を引き出す超能力を持っているんです。風が吹けば風を、雨が降れば水を、時が流れれば時を。彼女にとって万物は魔具そのもの。ペンを握れば現実を書き換え、時計を握れば時空を操る。超能力と魔法を融合させた全知全能の術、デウス・エクス・マキナ。アルカディアの民はそう呼んでるんだ」

 言われて思い出したが、レイヴェスナは世界に九人しかいない超能力者の一人である。つまり、この奇跡こそが彼女の力の片鱗ということなのだろう。超能力を目の当たりにしたのは初めてではないが、あまりにも度を越えた力。破壊されたアルカディアをたった一人で修復する彼女には、畏敬の念を抱かずにはいられない。


「これがアルカディアが未来永劫の理想郷と云われ、レイヴェスナを女神と崇め讃える所以だ」

 レイヴェスナが起こした奇跡に大した関心を寄せていないらしいシグナス。彼女は腕を組み柱に背中を預け、茶番が終わるのを待っているような態度だった。


「さすがはユリウス・フリゲート卿の愛弟子だよね」

 堕天使であるヴェロニカも、どこか嫌味っぽく口を挟んでくる。アルカディアに来たばかりの桜井は初めて見た光景だが、もしかすると彼女たちにとっては見慣れたものなのだろうか。


「人間が神の如き力を得たらどうなるか、これでよく分かっただろ」


 シグナスの言葉はレイヴェスナに対してやや刺々しい。レイヴェスナの指示に従って桜井の付き添いをしていたことからある程度の信頼関係はあると考えていたのだが、それは思い違いだったのか。ヴェロニカの言うレイヴェスナがユリウス──つまりシグナスの母の愛弟子という点が何か二人の間柄に関係しているのだろうか。

 いずれにせよ、桜井にはもう一つの無視できない疑念が浮かんでいた。


「これだけの力があるならクレイドルにも抵抗できたんじゃないか?」

 抵抗と言い表したが、一方的に攻撃できてもおかしくはない。彼女は紛れもなく超能力者であり、その力は桜井の想像以上だったのだから。


「確かに超能力者として不可能はないだろうが、レイヴェスナは己の身の程を弁えている」

 シグナスは彼の推察を肯定しながらも、侵攻時に女王が超能力を使わなかった理由についてを明かす。

「運命とはその人それぞれに帰属するものであり、部外者に支配されてはならない。街を直し民を蘇らせたのは、それがアルカディアのものだからだ。彼女が慈悲をかけるのはあくまでアルカディアだけであって、クレイドルや、お前が来たラストリゾートには慈悲をかけたりしない」


「つまり、これがアルカディアの女王のやり方ってわけか」

 納得できる理由ではあるし、女王の人となりを考えれば簡単に裏付けられる。初めてレイヴェスナに出会った時に聞いた通り、アルカディアが選んだ魔法との調和という理想を守ろうとしていた。危険な魔胞侵食まほうしんしょくを受け入れた美しい自然溢れる街並み、それは女王の決意の表れでもあるのだ。


「アルカディアで起きることは全て、レイヴェスナの意思によるものだと思え」

 自分で言っておきながら、シグナスはどこか嫌悪感を抱いているようだった。抑揚のない声が敢えて感情をこらえたものであることは明らかで、彼女はそれを悟られないように柱から背を離す。それからヒールを鳴らして別の部屋へと行ってしまった。

 超能力者。

 奇跡を願うこと。

 本来ならば、奇跡は簡単に起こせるものではない。それでも、現にこうして超能力者は奇跡を起こしている。

 その事実は、桜井の心へ重くのしかかっていた。

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