第5章「神に見棄てられた土地」

第5章第1節「神に見棄てられた土地」


 獄楽都市クレイドルによるアルカディア侵攻から一時間が経とうとしている。勇敢な騎士やアルカディア楽団はクレイドル軍へと立ち向かい、罪のない市民たちは逃げ惑い、皆は一様に崇拝する女神へと祈りを捧げた。

 しかし、彼らを守り導いてきた神話の神々はもういない。それを証明するかのように、アルカディアは戦火へと包まれ祈りが天に届くこともない。彼らに逃げ場がないことと同じく、祈りもまた行き場をなくしてしまう。とはいえ、彼らとて天に届かないことなど承知している。それでも祈るのは、彼女の救いを信じているからだ。

 彼らが祈りを捧げる先はフォルテシモ宮殿──その一室には存亡の危機に瀕した国土を眺める貴族が二人いた。ディノカリダ・ラザリアス公爵、レナータ・ジゼル・ド・ウォルザーク辺境伯夫人。彼らに絶望の色味は微塵もなく、醸造されたワインを酌み交わしてくつろいでいる。まるで、愛すべき民の敬虔な祈りと愛すべき土地が滅ぶ様を肴に楽しむように。

 ド・ウォルザーク辺境伯夫人はグラスから口を離すと、唇を濡らした深紅の液体を二つ折りしたナプキンで拭う。それは少しドロっとしていて、真っ赤な血液を思わせる。

 そんな彼女の隣の席に座っていたラザリアス公爵は、国土を覆う破滅の影に変化があったことに気づく。すると劇の展開に茶々を入れる観客のように、公爵は退屈げに不満をこぼす。

「なんだ、もう諦めて帰ってしまうのか? アルカディアを滅ぼすに値する気概を見られると思うたのに、まったくつまらんのお」

 アルカディア上空を滞空していた魔導母艦ワルキューレが上昇を始めている。先ほどまで投下され続けていた兵器も途切れ、撤退の準備を進めているのだろう。ソプラノ地区とアルト地区を中心に展開していたクレイドル軍も失速しつつある。一度投下された兵器が回収されることはないが、現状の残存兵の規模ならば騎士や楽団員のみで十分片付く範疇だ。

 グラスを傾け一気に残りを飲み干す公爵の横で、夫人はため息を吐いた。ようやく味気のない劇を見終わったとでも言いたげに。

「クレッシェンドには良い冷水になったことでしょう。あわよくば、その首を持ち帰っていただきたかったですが」

 公爵だけでなく夫人も心底落胆した様子。災いの降りかかったにも関わらず、彼らは動揺しないどころか民の安否を気にもかけていない。

「アズエラとやらもフリゲートの小娘にやられるなど情けない。せっかくあれらが唱える終末論が戯言でないと証明する好機だったに関わらず、みすみす逃しおって。その点、クレイドルはまずまずの及第点といったところか」

「仰るとおりですわ」

 文言こそ公爵に同調しているものの、夫人は落ち着きなく視線を彷徨わせた。尤もその反応は本来あるべきものだが、彼らに限ってはそうでない。では夫人は何を気にしているのか。

「何を浮かない顔をしている?」

 普段と異なる素振りに公爵もすぐに気づく。隠し通せるとも思っていなかったのか、夫人は最初こそ否定しつつも本音を漏らす。

「いえ、なんでもありませんの。ただ、わたくしの娘は好んでこの災厄に飛び込んでいったのです。なぜそんな無意味なことをするのか、理解できませんわ」

 最終的に夫人の目が行き着いたのは、テーブルに置かれた三つ目のグラスだった。グラスには何も注がれておらず、椅子にも誰も腰掛けていない。だが、公爵と夫人以外にもう一人来る予定があったのは明白だった。

「超能力者の遺体の一部を移植してからというもの、力に酔っているようで気が気でないわ」

「よいではないか。血気盛んな若者はわしらと盃を交わすよりやるべきことがあるだろうて。いずれは席についてくれるわい」

 夫人は娘であるニキータをこの場へ呼んだのだが、彼女はあろうことか戦場へ飛び出して行った。夫人にとっては想定外のことだったらしいが、公爵は問題と考えるどころか好意的に捉えている。

 二人はわずかにすれ違っていたが、夫人はこれが身内の問題であることを弁えていた。おそらく他人事としか考えていない公爵へ思うこともあれど、反論することは控えて自分を律する。それを手助けするように、遥か上空のワルキューレから響く轟音が現実へ引き戻す。十分な高度へと上がったワルキューレは船体後部に設置されたスラスターの噴流を強め前進、しばらくすると光と共に飛び去っていった。

 アルカディアを見舞った災厄は去った。多くの人々にとってそれは朗報になるだろう。そんな中で、夫人はもう一つ懸念すべきことを思い出す。

「魔法調律連盟盟主の行方が分かっていないとか」

「おぉそうか。それはわしらの手間が省けたということだな。いや結構結構」

 報せを受けた公爵は満足そうに手を叩く。が、夫人の反応は正反対だ。

「しかしラザリアス公爵、盟主が不在となれば些か問題があるのではなくて? 弱者の分際でのさばる反魔法主義者たち、我が物顔で村に住み着く穢らわしい堕天使たち、砂漠に追いやられた哀れな没落貴族たち。誰が卑しい者共の手綱を握るのやら」

 獄楽都市クレイドルによる脅威以前に、アルカディアは多くの問題を抱えている。不幸中の幸いにも、魔法調律連盟の盟主デュナミスは自身が問題そのものでありながら、立場を弁えあらゆる問題の調和を取り持っていた。魔法生命体レリーフである彼女がいなくなったこと自体は喜ばしいことかもしれないが、手放しに喜べる状況でもない。

「うーむ、それは確かに困るのお」

 失念していたらしい公爵は面目なさげに顎鬚を弄る。とはいえ悩んだのも束の間、

「しかしあやつらも所詮は淘汰されて然るべき者たち。今日まで生き永らえて来れたのも、あの盟主の恩賜に過ぎんだろうて。盟主がいなくなれば、自ずと淘汰されるはずだ」

 相変わらずの楽観視を決め込む公爵。何か策があるのかどうか、夫人でさえ預かり知るところではない。

「はあ、先が思いやられますこと」

「これこれ、憂いても仕方なかろう。この世界を見守ってくれる神々や天使はもうおらんのだ。ならばこそ、代わりにわしらが見届けようぞ」

 それらしい大げさな言葉を並べつつ、公爵は開封済みのボトルを持って互いのグラスにワインを注ぎ足す。

 血の如く赤いワインの香りに誘われ、夫人はグラスを手に取ってくゆらせた。

「どれほど穢れた天使であっても、せめて贄になってもらわなくてはいけませんものね」

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