第1章第2節「立てかけられた天への梯子」
つい先程までラストリゾートのシャンデリアにいたが、長旅だったというわけではない。世界大陸は魔力によって大半が失われ、暗黒に包まれている。そのため国と国を移動するには、船や飛行機の代わりに特殊な魔導座標に基づいたテレポーテーション装置が必要になる。つまり、桜井はラストリゾートからアルカディアへテレポートをしただけ。時間にすれば一分にも満たない世界旅行だ。
招かれた立場であるからには、彼もきちんとしたスーツで来訪してきている。普段から締めていないせいかきつく感じるネクタイをいじり、大使館のゲートを通った。
最初に目に入ったのは大きな桜の木。疎らな通行人に、横切るようにヒラヒラと飛んでいく蝶々。不思議な淡い光の翅を持った蝶々に視線を取られて横を見れば、石造りの壁や天井を支える柱には植物の蔦が絡みついていた。緑が豊かと言えば聞こえはいいが、手入れのされていない廃墟でしか見れないような光景だ。場合によっては『
そこにいたのは、受付カウンターで腕を組んで煙草を吸う女性。なぜ見慣れているかと言えば、知り合いだったからではない。彼女が着ている服が、同じDSRで支給される女性用の制服だったからだ。
白と黒を基調としたノースリーブインナーは
「やぁどうも。君、DSRだよね?」
鶯姫と目が合った桜井が挨拶するも、彼女は腕を組んだまま。それどころか軽い質問に答えようともせずに、煙草の吸い殻をしまいながら質問を返す。
「あなたが桜井結都だね?」
冷静沈着で仕事に私情を持ち込まない。どこかの誰かに似た──釣れない第一印象を抱きながらも、桜井は相槌を打った。
「よかった。ここはアルカディアのラストリゾート大使館。あなたを出迎えるように頼まれたの」
やはりと言うべきか、気軽な雑談は期待できそうにない。だが桜井は落胆するよりもまず安堵の表情を浮かべた。
「あぁそうだよな。どこか廃墟に放り出されたのかと思ったよ。蝶々は飛んでるし植物は生え放題……」
彼は大使館を軽く見回して、普段の調子で説明する。もしかしたら、外っつらが冷たいだけで本当はノリが良いかもしれない。そうやって鶯姫に探りを入れたのもあるが、桜井自身の所感であることに変わりはない。
そして彼が感じている違和感の通り、大使館という割には雑草は生えているし落ち葉も散らかっている。立派な桜の木や心地よい風の通り道に気を取られるが、近代的な都市にはあるまじき要素だ。仮に魔胞侵食だったとすれば大きな問題になりそうなものの、受付員や通行人の様子は平気そうだ。ラストリゾートなら騒ぎ立てる程の規模だったこともあり、桜井は自分を納得させるように言う。
「アルカディアじゃこれが普通ってとこか」
彼が立つ土地はラストリゾートではない。その大前提を恐る恐る踏み締めていると、鶯姫は不思議そうにも呆れたふうにも彼を見つめる。彼女からすれば、アルカディアでの常識を知らない桜井に戸惑いを覚えずにいられないのだ。
ひとまず状況を受け入れた桜井は、この土地で果たすべき目的について話し出す。
「それで、アルカディアの女王陛下と面会をしに来たんだ。どこに行けば会える?」
「クレッシェンド卿はフォルテシモ宮殿にいる。宮殿には飛空船に乗って行くから」
先ほどまでの一方通行で理解のされない時間はどこへやら。いざ本題に入ると彼女はきびきびとした動きである場所へ向かった。桜井は置いていかれないように小走りで後を追う。
「ちょっと待った、飛空船?」
ラストリゾートでは聞いたことのない乗り物に耳を疑う。飛空船といえば気球を用いて空を飛ぶアレを思い起こすが、魔法産業革命の時代にもなって聞くことになるとは想像もしていなかった。
「ついてきて」
無駄なやりとりは好まないのか、プリーツスカートを揺らして先へ進む。鶯姫は自分がなすべき仕事にしたがって、桜井を飛空船発着場へと案内しているだけ。つくづく仕事に忠実なエージェントらしい。桜井からしてみれば、適度にサボれる──いや、気を抜ける仕事仲間の方が好みではあるのだが……。
「ねぇ君、名前は?」
早歩きでもしているのか、やたらと歩く速度の速い彼女に追いつく。せめて初歩的な関係を築こうと、桜井は名前を問いかけた。彼は物言わぬ輸送される荷物ではないのだから、せめてお互いの名前を知ることくらいは許されるべきだ。彼の尊厳のためにも。
「鶯姫星蘭。あなたと同じDSRのエージェント」
改めてというよりも、彼女はやっと初めましてを口にする。DSRエージェントであることこそ聞かずとも分かっていたことだが、それを聞き出すのにここまで苦労をした。その苦労に見合うかどうかといえば、どうだろうか。
少なくとも、桜井は鶯姫のことなど些細に思えるほどのものを目にした。
「魔法郷アルカディアの、ね」
彼女が案内したのは、飛空船発着場。文字通りそこには飛空船がやってくる。鶯姫と別れたアルカディア楽団のニッキー・ジゼル・ド・ウォルザークは、桜井を宮殿へ運ぶための飛空船を手配したと言っていた。飛空船はアルカディアでは公共の交通機関であり、それを特別に大使館の発着場へ寄らせたのだ。
飛空船。全長五十メートル近くもある気球を頭上に、鋼鉄と木材を使って造られた船が空中に浮かんでいたのだ。海に浮かべるはずの船が、空中に浮かんでいる。桜井は視界に収まりきらないほどの巨大な飛空船に、足を止めて目を白黒させた。
「すごいな」
彼の感嘆ぶりに遅れて気づいたのか、鶯姫は振り返って問いかける。
「ラストリゾートにはないの?」
「車が空を飛んだり砦が宙に浮いたりはするけど、こういうのは……ないな」
「ふーん」
見上げるほどの大きさを持つ飛空船を前に、鶯姫は呆れたような息を吐く。どうやら本当にアルカディアでは何も珍しいものではないらしい。それもそのはず、アルカディアの人々にとって飛空船はいわゆる空を飛ぶバスなのだ。
さっさと先に乗船してしまった鶯姫を追って、桜井も思い切って乗り込む。本来は切符がなければ乗れないようだが、今回は特別に乗せてもらえるという。
「飛空船に乗るなんて生まれて初めてだよ」
「あっそ。アルカディアの人は通勤や通学で毎日使ってるけど」
鶯姫の態度には歓迎のかの字も見えないが、桜井が感じている疎外感は外国特有のもの。……それだけだと信じたい。
飛空船の内部は三層構造になっており、二人が乗り込んだ搭乗口は真ん中に繋がる。中はレストランや土産屋が軒を連ねていて、さながら商店街。大使館の人通りが嘘に思える程度には混み合い、公共交通機関だけあって多くの人々が利用しているようだ。二人は雑踏を避けて螺旋階段へ向かうと、上層の甲板へ出た。
甲板は当然ながら晴天の下にあり、両舷からは空からの景色が一望できる。鶯姫が気を効かせたのかは分からないが、彼女は桜井をそこへ連れてきた。二人がそこへやってくる頃には、飛空船は大使館から発進を始める。動く瞬間はフラッと体勢を崩したが、すぐに船体は安定。吹いている風も苦しくなく、想像よりも遥かに快適だ。
「これからフォルテシモ宮殿に向かう。ほら、あそこに見えるでしょ」
桜井は鶯姫を真似て、手すりに手をかけてそこからの景色へ視線を落とす。
魔法郷アルカディア。その呼称からはラストリゾートのように最先端の科学技術である魔法によって栄えた近代的な都市が想像される。だが桜井の眼前に広がっているのは、魔法がありふれたホログラム街でもなければひしめき合う高層ビル群でもない。
アルカディアの街並みは歴史の厚みに裏付けされた建築様式が取り入れられ、いわゆるゴシック式の建築物がほとんどだ。特徴的な半円形の尖頭アーチや尖った屋根。いずれもラストリゾートでは見られないもので、なおかつ見晴らしの良い景観が広がっていた。決して飛空船から見下ろしているからそう見えるわけではなく、景色を遮るのは時計台や宮殿といった最低限のものしかない。
そして何より目を引いたのは、街の至る所に緑があることだ。科学技術と都市文明の発展は往々にして自然を奪うもので、ラストリゾートには自然がほとんど残されていなかった。しかしアルカディアには、街を飲み込むほどの植物が見て取れる。自然に飲み込まれた街というと廃墟をイメージするが、実際はその真逆。緑化した街並みは自然に溢れていて、文字通りに人間と自然が共生しているのだ。
大使館を訪れた桜井は植物の生えた壁や床を見てきたが、あれは片鱗に過ぎないことを味わった。あちら側を見れば全長百メートルはあろうかという大木。あちら側を見れば街中に滝が出来ていて虹が架かっている。それらの中には総じて、自然に潰されていない街が栄えているのだ。人類史が実現できなかった自然と文明の共存──調和を実現している、そう言い切ったとして過言ではないだろう。
しかし、桜井はどうしても心の底から感嘆することができなかった。
「これだけの魔法植物が生い茂ってて、
魔力が植物を異常に繁茂させる現象として知られる魔胞侵食。ラストリゾートでは魔法植物が整備された道路や建物を荒らしてしまうことで大きな問題になっている。桜井たちDSRはそれを止めるために『滅菌』によって植物を燃やしているのだが、アルカディアでは滅菌が行われている様子は一切ない。それどころか、草木は街の中でもお構いなしに伸び伸びと成長し、道や建物を覆い尽くしている。
普通ならあり得ない景色を前に驚きを隠せずにいると、鶯姫は当然のことを口にする。
「ラストリゾートから来たあなたからすればこの景色は異常に映るかもしれないけど、ここではこれが当たり前。魔法と共存するためには、魔胞侵食も魔法アレルギーも克服しなくちゃいけない。できない人は、ここじゃ生きていけない」
彼女の強かな言葉と、目の当たりにした信じ難い景色。魔胞侵食がもたらす影響や魔法アレルギーを克服することは難しく、ラストリゾートでさえ解決方法を見出せていない。もちろん、アルカディアとて解決する方法を見つけたというわけではない。ただ、それを乗り越えて共に歩む道を選んだというのだ。
「誰もがこの景色を楽しめるわけじゃないってことか」
克服できない人は生きていけない。つまり、魔胞侵食や魔法アレルギーの影響を黙って見過ごすということ。未知の災害を食い止めることを諦め、被害を容認し生き残った人々だけが生きていく。そんな思い切った在り方に桜井は少しばかりの疑念を抱いたが、アルカディアの神秘的な景色を前にして霧散する。
その美しい景色は、アルカディアの歴史が数多の災害を乗り越えたという何よりの証拠でもあるのだ。
「残念だけどアルカディア人はみんなそれで納得してる。あなたはここで生きてける人間だといいね」
景色を噛み締めるようにして、彼は今一度目に焼き付けた。
「あぁ。まったく……もったいない景色だ」
桜井たちが乗っている飛空船は公共交通機関という話だったが、それを証明するように遠方には別の飛空船が見える。ラストリゾートでは空を飛ぶ車のために空路を整備しようとしたが、その複雑さから断念され飛行機能を持つ車両は一部に留められた。だが飛空船のようにバスとして利用するなら、飛行機の延長線として交通を整備することができるのだろう。
飛空船のほかに飛んでいるものといえば、中型の鳥たちだ。これだけ街に自然が栄えれば、そこに住む動物たちもまた生息している。ここからでは見えないが、地上に住むのはおそらく人間だけでないことも想像に難しくない。精々公園しかないラストリゾートでは絶対にお目にかかれない景色だ。
「…………」
あまりの壮観さに、桜井は余計な心配事が杞憂だということを思い知る。心にあった嫌なざわめきは、感動による高鳴りへとすっかり変わっていた。彼の横顔を見ていた鶯姫にも、その感動はよく伝わっていた。彼女はこのまま黙っていてもよかったが、仕事である以上は最低限のことを彼に伝える義務がある。
「念のために言っておくけど、私は観光ガイドじゃないから。余計な質問はなし。あなたのことをあれこれ聞かないし、私も話すつもりはない」
ひとしきり景色を堪能していた桜井は、首だけを動かして鶯姫に応えた。
「分かってる。俺もそこまで野暮なことはしないさ。今回アルカディアに来たのだって、観光目的じゃないんだ。……まぁ、流石にちょっと感動したけど」
興奮を隠す気はないどころか、彼は未だ景色に見惚れている。手すりから身を乗り出す勢いだ。
かといって忘れてはならないが、桜井は観光のためにアルカディアへ来たわけではない。ただせっかく来たのなら最低限のことは見聞きして楽しみたいというのが本音。何より、外国へ渡れるなんて滅多にできることではない。
前日までには多少の不安を抱えていたはずが、今回ばかりは仕事を億劫に感じずにはいられなかった。
反して、鶯姫は見慣れた風景に興味などなく、手すりに背中を向けて淡々と言う。
「宮殿についたら、あなたを向こうに引き渡す。私が案内できるのはこの船を降りるまで。DSRもアルカディアじゃ好き勝手に動けないから、あなたをサポートできるのも船を降りるまで」
桜井はDSRという立場から出迎えの飛空船まで手配され、特別な待遇を受けている。普通ならアルカディアにおいてDSRはそうされるだけの地位にあると勘違いするだろう。しかしあくまでも今回は特例で、女王直々の招聘だからこそのこと。つまり、DSRの立場は本来ならそこまで強いものではないのだ。
それを事細かに話すつもりはないにせよ、鶯姫は桜井の目を覚ますように忠告した。だが彼には言うまでもなかったらしく、
「了解。立場を弁えろってことだな」
「そういうこと」
分かっているのなら何も問題はない。鶯姫の仕事は桜井を宮殿に送り届けること。飛空船はもうすぐ目的地につくし、何事もなく仕事を終えることができそうだ。
あとはただ腕を組んで、何事もなく仕事が終わるのを待つばかり。今のところ上着を羽織った背中に隠した『魔具』は役に立っていない。ニッキーが大使館を離れたのは気がかりだが、大きな問題が起きる様子はなかった。
頭の中で仕事の目処をつけた鶯姫は、景色を堪能する桜井の方を横目でチラッと見る。彼がアルカディアの女王に招かれるほどの人物には到底見えない。まして同じDSRのエージェントだというのだから驚きだ。
彼の素性にまったく興味がないと言わずとも、今さら雑談をするつもりはない。だが外部からの客人で同じDSRという立場から、鶯姫はひとつ忠告することにした。
「それともうひとつ、私からアドバイス。ラストリゾートの常識は捨てたほうがいい。あなたもDSRエージェントなら、この世界で常識が何の役にも立たないってことくらい、分かるでしょ?」
普段の彼女であれば、アドバイスは滅多にしない。公私を分け世間話を避けるよう釘を刺したのは、誰でもない彼女自身。にも関わらず、その重い口を開いたのは桜井に昔の自分を重ねて見ていたからだった。
当の桜井からすれば、鶯姫の助言は分かりきったことだ。この世界に常識が通用しないことは、身を以て味わってきた。彼女の言葉はそれを呼び起こし、桜井の身を改めて引き締めさせる。
「そうだな……アドバイスどうも」
手すりから体を離し、桜井は鶯姫を見て短く礼を言う。生真面目なのは第一印象からだったが、彼女も彼女でDSRでは長いのだろうか。同年代の見かけによらず、その澄ました横顔は先輩風を吹かせていた。
そんな鶯姫が宮殿への到着を黙って待っていると、桜井からの視線を感じる。アルカディアの景観は楽しめたのか、次は鶯姫自身に関心が向いたのか。彼女としてはあのまま景色にかじりついてもらっていたほうが嬉しいのだが……。
「なぁどこかで会ったことあるかな? 変な意味じゃなくて鶯姫って聞き覚えがあってさ」
何を聞いてくるかと思えばひょんなこと。親しくなろうというセリフにしては使い古されたもので、彼がどういう意図で言ったのか理解できなかった。
「私はラストリゾートに行ったことはない。それが答え」
簡潔に真実を伝える。何の滞りもなく、気遣いもない。単にイエスかノーかで答えるよりも、遠慮のない意思表示だった。
尤も、桜井もラストリゾートから出たことはない。というより、生まれ育った土地がラストリゾートと呼ばれるようになっていた。ラストリゾートという場所ができる前から、彼は故郷を離れたことがない。
「そっか。なんだったっけかな。DSRの資料かなんかで見たのかも」
二人に共通点があるとすれば、やはりDSRという組織だろう。桜井は必要以上に鶯姫と親しくなろうという意識はなかったが、せめて仕事付き合いの一環として話をしただけだ。二人に会ったことがなく、ただ資料で名前を見かけただけだとしても別段困ることはない。
「そんなに珍しい名前じゃないんだし、不思議じゃないでしょ」
そうこうしていると、飛空船は目的地への到着をアナウンスした。
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