第1章第9節「立てかけられた天への梯子」

 シグナスが向かった先は、フォルテシモ宮殿の大広間だった。桜井も宮殿へ入る時に通ってきた、あの屋外庭園に似た雰囲気の道だ。シグナスはそのまま外へ向かうのかと思えば、脇道に逸れて一本の大木へと近づいていく。大木の上にはツリーハウスが設けられていて、桜井はまさかと思いつつ彼女たちの後を追う。

「なぁ、もしかしてあのツリーハウスに登る気だったりする?」

 歩きながらアイスを食べ終えたセレサに聞くと、彼女は指についたクリームを舐めて言う。

「その通り。あれが私たちエンジェルラダーの拠点です。アルカディアの各地に同じツリーハウスがあるから、暇があれば見上げてみてください」

 ある程度木に近づくと、徐々に光の梯子が現れ始める。シグナスはそれを伝ってツリーハウスへと入っていった。セレサの後に続いて桜井も中へ入り、扉が閉められた。貴賓室にいたヴェロニカはついてきていない。

 ツリーハウスというものに実際に入るのは、生まれて初めてのことだった。それ自体はラストリゾート記念公園にもあったものの、木の上にある家と聞くと落ち着かないイメージが彼にはある。いざ上がって見回してみると、暗すぎず明るすぎない室内に温かみのある木の匂いは心なしか落ち着ける気がした。

 木の上という限られた空間ゆえに広さはそれほどかと思えば、ゆったりとしたスペースが出来上がっている。本棚にはいくらか本がしまわれ、背の低い机には必要最低限のものしかない。しっかりと整理整頓されているといった印象だ。

 とはいえ、照明として使われるランプのスタンドが女性の太ももを模したレッグランプなのはどういうことなのか。ソファの上を見れば同じく膝を模したクッションが置かれ、なんちゃって膝枕ができるらしい。次にテーブルの上を見れば、男性の筋肉モリモリのマッスルポーズを模したマグカップが置かれ、マッチョな取手に指を通したセレサは何食わぬ顔で飲み物を飲んでいる。

 穏やかな雰囲気を壊すシュールなインテリアが妙な調和を見せるツリーハウス。思わずぎこちなくなる桜井はひとまずセレサが案内したソファに座り、シグナスの方を見た。

 何やら作業台に向かっているが、このまま黙っているわけにもいかない。レイヴェスナが彼女と行動するように促したのだから、一応の建前もある。彼は意を決して話しかけた。

「俺は桜井だ。君はシグナス・フリゲート、だろ? 話は聞いたよ」

「口を閉じておけ。寝言を聞いているようで恥ずかしくて敵わない」

 敬語を使わなかったのが気に障ったのか、シグナスは全く取り合わない。だが彼女は見るからに未成年で、DSRのオペレーターであると同時に現役の学生である桐生蓮美きりゅうはすみよりも一回り幼そうに見える。確かにその態度は年齢にそぐわないが、外見だけは取り繕うにも限度がある。

 すっかりお手上げな桜井に、対面のソファに座っているセレサが言った。

「ほら、あなたってアルカディアとかレミューリアのことを何一つ知らないんでしょ? そんな人間が話すことなんて大抵碌でもないこじつけの妄想ばっかりだから、そういう低俗なのは聞きたくないんですよ。耳が腐っちゃうから」

 酷い言い草だが、一理ある意見だ。桜井はラストリゾートから来た客人という立場で、アルカディアの文明とは根本的に異なる意識を持っている。現地の人間であるシグナスから見て、桜井が滑稽に映ったとしてもおかしな話ではない。

 途端に気まずい空気がなだれ込み、彼は一旦話題を変えようとした。

「ところでもう一人は連れてこないでいいのか? 仲間、なんだよな? 一応」

 控え室のソファに置いてきたヴェロニカ。彼女が今頃どうしているかを考えると、隣から嬉しそうな声がした。

「やだ心配してくれるの? セレサ、あたしちょっとだけ彼のこと気に入ったかも」

 なんと桜井が座っているソファに、ヴェロニカは最初からそこにいたかのようにして隣から覗き込んできた。

「どうやって……?」

 普通ならあり得ないこと。瞬間移動を可能にする魔法は確かに存在するが、かなり危険な上に扱いにくいものとして記憶している。ヴェロニカはそれを使いこなしているのか、瞬間移動を用いないとできない芸当を次々に見せている。別のソファからセレサのもとへ移った時、控え室から桜井のソファに移った時。

 アルカディアという場所は、ここまで熟達した魔法使いがいるのか。一周回って感心の念を覚えていると、

「気にするだけ無駄無駄。ヴェロニカが歩く必要なんてないんですから。ひょっとして歩き方も覚えてないんじゃない?」

 極めて冷静に言いながら、おちょくることも忘れないセレサ。案外似たもの同士にも思える二人のやり取りに、桜井はまたしても挟まれた。

「まったく好き放題言ってくれるよねぇセレサは。仮にそう思ってるんだったら杖の一つや二つ買ってくれてもいいのに……桜井センパイもそう思わない?」

「あはは、だな……」

 第一印象がそうだったように、セレサとヴェロニカは桜井の手に負えそうにない。どんなDSRエージェントよりも二人は上手だ。

 誰でもいいからこの状況から助け出してくれ。切実に思っていると、救いの手が差し伸ばされた。

 いや、。この方がより正確だ。

「痛い!」

 短い悲鳴が聞こえたと思うと、桜井の隣にいたヴェロニカの胸元に一本の矢が突き刺さっていた。

 驚きのあまり立ち上がった桜井は矢が飛んできた方を見る。敵襲を受けることなど想定もしていなかったが、窓や扉に外敵の気配はない。代わりにそこにはシグナスがいて、彼女の手には──作業台で熱心に手入れしていた──中型のクロスボウが握られていた。

「そいつに構うなヴェロニカ」

 シグナスに射抜かれたヴェロニカは意識を失ったのか、ソファの隅にあった膝枕クッションに顔を埋めている。桜井は体を強張らせたまま様子を窺うも、彼女はぴくりとも動かない。

「……いったいどういうつもりだ?」

 目を見開く桜井は、突然のことに動揺と憤りを隠せずにいた。話を聞く限り、ヴェロニカはシグナスとセレサを含めた仲間であり、いきなり攻撃する動機はない。有無を言わさず胸を射抜くなどもっての外だ。

 だが、シグナスは桜井に落胆の眼差しを向け、改めてクロスボウの弦の調子を確かめた。

「つくづく呆れるな。未だに現実と神話を区別して考えているのか? 評議会で話を聞いたんじゃなかったのか、それとも理解するお頭がないのか」

「神話が現実だってことならもう分かった。でもそれとこれとは話が違うぞ」

 話が全く噛み合わない。シグナスとはまだまともに話したこともなく、どういった人間なのかも知らない。ただ、魔法の始祖であるユリウス・フリゲートの娘ということ以外は何一つ知らない。その偉大な人物の娘がこうなのか。

 桜井の心に、失望に似た感情が芽生え始める。が、シグナスはそれ以上に失望していた。

「ならそこにいる二人が使だと言ったら信じられるか?」

 脈絡も何もない。全てが噛み合っていないのだから、意思の疎通ができるわけもなかった。ただあるのは事実。

 ヴェロニカを射抜いたシグナス。

 ヴェロニカはレミューリアの堕天使。

 何を信じればいいのか分からなくなってきたその時、倒れていたヴェロニカが起き上がった。何事もなかったかのように、胸に矢を刺さっていることを忘れた普段の調子で。

「シグナスが言ったんじゃん。余所者に正体は明かすなって。せっかく死んだフリまでしたのに!」

「? ……え?」

 パンクしそうな脳は、もはや理解を放棄していたのかもしれない。ヴェロニカは胸に刺さった矢を素手で抜き、二つに折ってゴミ箱に捨てている。

「まったく。服に穴があかなくてよかったよ」

 狙ってかどうか、射抜かれた箇所は肌を露出していたため彼女の言う通り服は無傷だ。それどころか、素肌にさえも傷跡が残っていない。

「即興にしちゃ迫真の演技でしたね」

 一部始終をお菓子を食べながら見ていたセレサは、感心したふうに言う。

 二人とも平然とした顔をする傍ら、桜井は呆気にとられていた。

 ヴェロニカは不死身であり、シグナスが言う通りに堕天使である。それが彼女たちの正体だと、頭で理解したからだ。

「非常に残念でならないが、そいつは部外者ではないらしい」

「なーんだ。それならそうと始めから言ってよね」

 呆れた様子のシグナスとつまらなそうなヴェロニカ。桜井はツリーハウスから蹴り落とされる思いを味わっていた。

「ちょっと待ってくれ。堕天使? 本物のレミューリア人なのか?」

 彼はやや興奮気味に確認すると、答えたのはヴェロニカ。いつの間にか桜井の隣ではなくセレサの隣へ移り、お菓子をつまみ食いしている。

「ま、ご存じの通りレミューリアは滅んじゃったからね。こっちに逃げてきて、レイヴェスナ卿に匿って貰ってるの」

 故郷から遠く離れた魔法郷。現実の歴史であったレミューリア神話。木の上にあるツリーハウス。

 彼の身を取り巻く非現実の環境が、彼女の言葉に真実味を塗す。疑う余地はないに等しかった。

「……まさかこんなに早く神話の世界の住人に会えるなんてな」

 コンツェルト評議会においても、彼はレミューリア神話が真実であることを知った。それを信じることができたのは、何よりも手元に魔剣ライフダストがあったことが大きい。話で聞くよりも実物を見て触れることでしか、確かな実感は得られないもの。

「一応言っておきますけど、私にまで矢を放ったりしないでくださいね。私みたいな普通の堕天使はヴェロニカと違って不死身じゃないから」

 そして今、レミューリアに住んでいたセレサとヴェロニカに出会った。彼女たちの存在が、桜井が行ったことのないレミューリアが実在することを裏付けるのだ。逆に言えば、ラストリゾートに行ったことのないシグナスたちにとって、桜井の存在は楽園の実在を裏付けてもいた。尤も、シグナスは失望しているようだが。

「聞かせてくれ。なぜレイヴェスナはお前を招聘したんだ? お前は何のためにここに来た?」

 暗に、シグナスは何も知らないくせになぜ選ばれたのかを訊ねていた。彼女がようやく桜井と対話を始めたのも、まともに取り合う気になったからではない。レイヴェスナが何を考えて桜井を寄越したのかを確かめるためだ。

 桜井がどう答えるかで、シグナスの信用を勝ち取ることができるかどうかが決まる。しかし迷うことはない。もともと桜井がアルカディアを訪ねた理由は一つしかないのだから。

「ここに来たのは単に招聘されたからじゃない。俺はレリーフの正体について知りたいんだ。正直、神話が現実の歴史だったなんて信じ難いけど、今なら分かる。それが真実なんだって。ラストリゾートじゃ知り得なかったことだよ」

 もっと言えば、彼はずっと心のどこかで勘づいていただろう。世界魔法史博物館で魔剣のことを知った時が始まりだったとは限らない。おそらく、自分と瓜二つの姿をしたレリーフ──ユレーラを見た時から分かっていた。この世には自らの理解を超えた事柄があり、それらは全て現実に実在するものであることを。

 桜井はその認識を自らの経験によって培ってきたが、評議会では神話という名の歴史を伝えられた。桜井はそれが事実であることを既に認めることができる。が、シグナスは評議会に否定的な態度を取っていた。

 彼女は意図せずして、その理由を語った。

「人間は神話や歴史から何も学べやしない。己の経験だけが自らを律する。何より、神話や歴史なんていうのは後世によって都合よく解釈されるだけならまだしも、書き換えられたり付け加えられた虚構であることが多いからな。それらを鵜呑みにする者ほど同じ過ちを繰り返す」

 歴史というものは時間に従って形態を変えてきた不確かなものに過ぎない。それでも人々は歴史を根拠にして秩序を練り回し、今日まで繋いできている。果たして、彼らは自分が正しいと思ってきたことが後に否定されることを考えたことがあるだろうか。そもそもなぜ練り直す必要があるのかといえば、大元が虚構であるからに他ならない。虚構が一時の真実になるのだ。

 評議会の最高議長であるディノカリダ・ラザリアス公爵は、魔法の母であるユリウス・フリゲートを逆賊と呼んでいた。この世界に魔法を持ち込んだ彼女こそが、レリーフの発端であると。ラザリアス公爵はある意味、歴史を省みて練り直した正しい秩序をもたらそうとしているのだろう。そのためにレリーフを排除することを、桜井に約束させた。歴史を根拠に正しいことであると決めて。

 シグナスは彼らが拠り所にする歴史は脆いものだと言いのけた。だからこそ、評議会を否定したのだ。彼女はそうせざるを得なかった。

 なぜなら、

「なぁ、シグナス……君があのユリウス・フリゲートの娘っていうのは本当なんだろ? だとしたら」

 桜井が言い終わるよりも前に、彼女は彼の胸ぐらを掴んだ。

「よく覚えておけ。私はお前を信用したわけじゃない。レイヴェスナの顔に免じて付き合ってやるだけだ……私の足を引っ張るようなら容赦なく始末するぞ」

 桜井を乱暴に離すと再び作業台へと向かう。手入れを終え、(意図したかどうかはともかく)試し打ちも終えたクロスボウを拾って光へと変える。

 いわゆる特定の魔具を収納用の魔具とペアリングして出し入れする、ごく一般的な魔法だ。その際、ペアリング元の収納用魔具が光るはずなのだが、シグナスの体のいずれも光らなかった。つまり、彼女はペアリングせずに武器を召喚しているということ。尤も、本来は腕時計にペアリングすべき魔剣ライフダストを、桜井はペアリングせずに意のままに召喚できた。以前から不思議だったが、それも魔剣の正体を知った今では納得できる。

 兎にも角にも桜井にできるのだから、彼女の出自も考慮すれば不思議に思うことでもないだろう。

 浮かび上がった疑問を納得させる傍らで、セレサは食べ終わったお菓子の袋を捨てて伸びをする。

「ぼちぼち行きますかボス」

 ヴェロニカは無視して、身支度を整えたシグナスはヒールの音を立てて扉へと進む。しかしすぐには扉を開けず、扉に描かれた魔法陣に触れる。魔法陣は時計盤のようになっていて、五つに区切られた盤面はそれぞれソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスと刻まれている。そこからさらに細かく区分けされているが、アルカディアの地区それぞれを指すことは来たばかりの桜井には分かるはずもない。

「これからどこに行くんだ?」

 桜井が問いかけると、彼女は魔法陣に浮かび上がった時計の針を動かしテノール地区・ルズティカーナ村に合わせて告げる。

「決まっているだろう。レリーフに会いに行くんだ」

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