三十七・疑惑(二)

「ルドカ様、大丈夫ですか? 昨夜はよく眠れなかったようですね」


 紅玲こうれいに言われ、あくびを噛み殺していたルドカは、慌てて目尻の涙を拭った。

 朝餉あさげの後、髪を束ねて簡素な衣に着替え、中庭に出たところだ。肩口に木剣を構えた紅玲と対峙し、今にも打ちかかろうとしている。


 公務のない日、午前の早いうちは、こうして武芸の鍛錬にあてることが多かった。主に紅玲から剣術や弓術の指南を受け、簡単な模擬試合をすることもある。


 思いっきり身体を動かせる貴重な時間なので、普段は目覚めた直後から楽しみにしているのだが、今日のルドカは傍目にも集中を欠いていた。

 紅玲は構えを解き、木剣の切っ先を下げる。


「やめましょう。怪我をする前にお休みください」

「……ごめんなさい」

「いえ、報告は受けています。なんでも猿が出て、夜の散策をされたとか」

「え、ええ、そうなの」


 控えていた娘子じょうし兵に木剣を渡しながら、ぎくりとする。

 猿はともかく、〝夜の散策〟は藍明らんめいを寝所に帰すための方便だ。よもやあるじに欺かれているなど、紅玲は思いもしないだろう。以前、「隠さず、裏切らず、危機には馳せ参じる」という武人同士の盟約を交わしたこともあり、すごく後ろめたい。


(盟約を破ったらどうなるのかしら)


 昨日はそれを気にする余裕などなかったが、一夜明けて落ち着いてみると、彼女に隠し事をしていることが、じわじわと気にかかり始めた。


 ルドカとしては全て話してしまいたいが、セツに繋がる藍明の正体を容易に明かすことはできない。今の時点で打ち明けられるのは、夢現香むげんこうのことだけだ。


 昨夜の別れ際、藍明はこう言い残した。さい尚食しょうしょくが席を外し、護衛官殿だけが傍にいる機会に、私をお呼びください、と。


 今はその機会だった。寧珠ねいじゅは朝餉の後、外出許可を得て王都の実家へと出かけている。遠縁の親戚だと判明した藍明の身元を、てい家当主の書状によって正式に保証し、人事を司る尚宮局しょうぐうきょくに女官候補として推挙するためだ。


 元々、武芸の鍛錬を早めに切り上げ、場を整えるつもりではいた。心安らげるために三弦さんげんを聴きたいと言えば、藍明を呼び出しても不自然ではないだろう。


 実行に移そうと思い、紅玲を見上げると、視線が合った。

 内心であれこれ考えている間、観察されていたらしい。


「昨夜現れたのは猿だけですか?」


 出し抜けに訊かれ、心臓が飛び出そうになった。


「えっ……え?」

「そういえば猿は、旅芸人が使う動物だなと」


 紅玲の鷹羽色の目が、中庭を挟んで南側にある建物を鋭く睨んだ。その一角からは、三弦をはじく軽やかな音色が聞こえてくる。

 視線をやると、からすにしては小振りな黒い鳥が、軒から飛び去るのが見えた。

 三弦の音が止んだ。


「もし昨夜の猿が旅芸人の飼っているものなら、あの三弦奏者は猿を使って、外部と秘密裏にやり取りができるかもしれません。または、その猿は偽装で、騒ぎを起こす間に別の目的を果たそうとしたのかも」

「かっ、考えすぎじゃないっ?」

「あり得ない事態も想定するのが将軍の務めだと、前将軍から教わりました」


 ルドカへと戻った紅玲の眼差しは、平素より険しい。後ろめたいものがあるだけに落ち着いていられず、ルドカはおずおずと尋ねた。


「紅玲……何か、怒っている?」

「怒っていますよ自分に。旅芸人が寄寓きぐうを始めた夜に猿が現れるなんて、偶然だと思いますか? 不安要素がある以上、私が夜番をすれば良かったんです」


 それを聞いて胸が詰まった。

 彼女は昨夜、王太子宮を辞して兵舎に戻った後、藍明の話を裏付けるための調査員を手配している。その仕事をこなした後に戻ってきて夜番を務め、翌日もルドカの護衛をするなど、全く現実的ではない。

 わかっていながらそんな言葉を吐いてしまうほど、護ろうとしてくれている。


(セツのことを話してしまえばいい)

 霊廟での出来事から全て教えたら、彼女がそこまで気を張る必要もなくなるのではないか。そんな声が胸の内で主張を始めるが、踏ん切りはつかない。


稗官はいかんの存在はずっと、王と王太子以外には隠されてきた。それが何を意味するのか、しっかり理解できるまでは、迂闊なことをすべきではないわ)

 そう自分を戒める声の方が、今はまだ大きい。


「紅玲、疑わしく感じるなら、藍明に直接聞いてみましょうよ。ちょうど私も三弦を聴きたいと思っていたところなの。誰か呼んでくれる?」


 直ちにルドカの要望が娘子兵たちの間で伝達され、やがて三弦を抱えた藍明が、しずしずと音もなく主殿のきざはしを上ってきた。

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