四十三・疑惑(八)

 香と一口に言ってもいろいろある。樹皮や樹脂、植物の根、花蕾、花弁、獣の体内から見つかる石など、多くの自然物が原料となる。

 乾燥させて刻んだものをそのまま使う場合もあれば、粉末にして梅肉や蜂蜜などと混ぜ合わせ、色を付けて見目麗しく成型する場合もある。

 直接火を点けたり、炭火を置いた灰の上で温めたり、かおらせ方も様々だ。


 セツはまず、王太子宮で使用される香について、詳細を話すよう促した。


「三種の香の粉末を数ヶ月に一回、てい家が納めているの。もう除けと虫除けと、香りを整える役割の香よ。管理は尚宮しょうぐう局の女官がするけれど、調合や準備は尚寝しょうしん局の女官が行う。外と室内では使い方が違うわ。正門の傍にある時香盤じこうばんでは抹香、つまり粉末のまま火を点けるの。容器に入った灰の上に型枠を置いて……」


 ルドカは身振りで時香盤の大きさや、型枠の使い方を示した。

 時香盤とは、時刻を知るために使用する大型の香炉のことだ。


 準備の際にはまず、敷き詰められた白い木灰の上に、金属製の型枠を置く。

 型枠には折れ曲がりながら繋がる帯状の穴が空けられている。その穴に抹香を詰め、型枠をそっと外せば、灰の上に屈折の多い抹香の帯が残る。

 帯の端から火を点すと、一定の間隔で燃焼が進むため、煙が出ている箇所を確認して、大まかな時刻を知ることができるのだ。

 時報の太鼓が鳴らされない夜間は特に、兵たちが見回りや交代の時間を把握する用途で、重宝していた。


「室内では煙を出したくないから、炭火で温めた灰の上に、花や葉の形に押し固めた香を乗せて薫らせるの。時香盤は兵の目のある場所に置かれているし、室内の香炉も誰かが近付けばすぐにわかるから、後から夢現香むげんこうを入れるのは難しいと思う。原料の香に混ぜるほか、方法はないんじゃないかって」


 ルドカが話す間、セツは一言も挟まず、じっと耳を傾けていた。

 説明が全て終わったところで、おもむろに口を開く。


「いくつか気になる点もありますが、大体把握しました。今の俺にわかるのは、この件にジスラ殿下が関与していないことだけです」

「え!?」


 ルドカは思わず叫んだ。それはかなり重要な情報ではないか。


「そんなこと、どうしてわかるの?」

「あの人は夢現香なんて迂遠な方法は取らない。あなたを王太子の座から引きずり降ろすつもりなら、堂々と一気にやります。今までそうしなかったのは、手をこまねいていたからではなく、理由あってのことです」


 冷水を浴びせられた気分だった。ルドカとしては、今まで白い目に曝されながらも王太子の地位にいられたのは、さすがのジスラも正当な立場に手を出すのは難しいためだと考えていたのだ。それが、違うというのか。


「その理由というのは、何……?」

「十年前、兎国とこくの傘下にあった西域の緑泉オアシス都市ハサライが、新興の騎馬民族に滅ぼされたことは覚えていますか」


 ルドカは頷いた。藍明らんめいはその首長家の末娘だったのだ。


「あれは一人の強大な王によって成し遂げられたことでした。一時は兎国に迫る勢いでしたが、あなたのお父上が彼らを西域の盟主と認め、多額の贈り物をして交誼こうぎを図ったことで、ひとまず和親を結ぶことができた。しかし五年前、その強大な王が急逝し、残された六人の王子たちが跡目争いの内紛を始めました」


「もちろん知っているわ。今は三人の争いになって、膠着状態のはず」


「膠着状態に陥っているのは、各勢力が疲弊しているからです。三年前に先王が崩御した際、ジスラ殿下が早々にあなたを廃し、自ら玉座に就く積極姿勢を見せていたら、そうはならなかったでしょう。王子たちは警戒し、内紛をやめて結束を固めたはずだ。兎国にすぐ王が立たず、王太子の地位に女のあなたがいたからこそ、彼らは安心して内紛に勤しんでいられた。つまりジスラ殿下は、あなたを王太子として泳がせておくことで、彼らの力を削ぐ時間にあてたのです」


 ルドカは愕然とした。

 頭を殴られたかのような衝撃だ。兎国と西域の関係を左右する要に置かれていたのが自分で、しかも、侮られているのが理由だったとは。


「でも、私が王太子の地位を自ら退いていたら?」

「それはそれで不都合はない。順当にジスラ殿下が王になるだけだ」


 積極的に王位を狙うか、謙虚に一歩引いた姿勢を見せるか。

 自らの態度一つで西域の情勢が変わる。それをジスラは熟知していたのだ。

 上辺だけの好意や優しさを見せなかったのは、むしろ誠意か。


「じゃあ、急に蒙術を使ってきたのは……」

「さっきも言った通り、惣領の報告で状況が変わった可能性があります。時が来ただけで、別に予想外なことではない。まずは夢現香の対処が先です。ジスラ殿下以外の誰かがあなたに手出しを始めたなら、知っておく必要がある」


 ルドカは頷いた。不安はいくらでもあるが、予想外なことではないとセツに言われて、不思議なほど気持ちが落ち着いた。


「監察局は非協力的かもしれないから、娘子じょうし軍だけで調べを進めた方がいいと考えていたの。でもジスラ様が関与していないなら、そんな必要ないのかしら」

「いえ。目的を共有している者以外、全て疑ってください。何か案は出ましたか」

「藍明が言うには、誰かが王太子宮に侵入したことにして、封鎖してしまえばいいと……それで紅玲こうれいと言い争いになったわ。あ、紅玲は私の護衛官よ」

「知っています。藍明は考え方が大雑把で、危険な状況を楽しむ悪癖がある。真面目なはん将軍とは気が合わないでしょうね。ただ、方向性は悪くない」


 顎に手をやって独り言のように呟き、セツは視線をルドカに向けた。


「時間がないので簡潔に言います。〝灰〟と〝予告状〟。この言葉を藍明に伝えた上で、理由をつけて、鄭家に送り込んでください。遠縁の娘として挨拶をさせたいとでも言えばいい。あなたの言葉なら無下にできない」


 その時、本殿の外から竹笛の音が聞こえてきた。ルドカは慌ててセツの言葉を胸の中で繰り返す。理解できなくとも、とにかく覚えるしかない。


「あなたは今夜も悪夢を見ることになりますが、もう事情が明らかなのだから、追われる立場だったこれまでとは違う。怖がるのをやめて、よく見てください」

「う……努力するわ。でも、何を見たらいいの?」

「筆跡です。高札に悪口が書かれているのでしょう? 箱庭を作る時に術者が書いたものだ。字は一人一人違う。覚えておけば役に立つはずです」


 ルドカは目を見開いた。追われる立場だったこれまでとは違う――


(そうか。怖がらずに見れば、相手を知ることができるんだ……!)


 ここへ来た時は凍えるように強張っていた自分の心が、伸びやかに広がるのがわかった。蛹から出たばかりの、蝶の翅のように。

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