四十二・疑惑(七)

 泣くつもりなどなかったので自分で驚いた。

 肉体から離れた魂の状態でも、涙が出るものなのか。


「霊廟に来て涙を流すのは、当たり前でしょう。なんでもないわ」

 説明する気になれず、ルドカは手の甲で涙を払って、そう言った。その話題から離れたくて、すぐに言葉を重ねる。


「この時間にここへ来ると、あなたに会えるの?」

 セツはルドカの手首を離し、どことなく呆れたような顔をした。


「そんなわけないでしょう。ランに呼び出されたから来ただけです」

「ラン?」

藍明らんめい

「えっ……どうやって」

「鳥を使って多少は連絡が取れるので。嘴の先だけ赤い、カラスによく似た黒い鳥がいたら、それは俺の使役なので射らないでください。名は黒呂くろろといいます」

「くろろ」

「呼ぶと喜んで寄ってくるので、気を付けるように。血を吸われますよ」

「え!?」

「ジスラ様に何か言われましたか」

 虚を突かれ、ルドカは無防備にセツを見つめた。今度は意地を張れなかった。


「どうしてわかるの……」

「ここに先客がいたので。危うく惣領と鉢合わせするところでした」

 やはりジスラは、現時点で稗官はいかんの役割をしているセツの兄と、ここで会っていたのだ。


「何か報告を受けて、本格的にあなたを廃する方向へ動き始めたのかもしれない。どういう言動があったのか教えてください」

「……セドク兄上が」

 必要なことなら教えなければ。そう思って口を開いた途端、喉と胸が絞られるように痛んで、すんなりと声が出なくなった。

 代わりに涙が後から後から、壊れた漏刻ろうこく(水時計)のように間を置かずに出てくる。


「わ……私を本当は、嫉妬して、恨んでいたって……!」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 人前で笑う時は口元を隠すけれど、泣く時の作法は知らない。王族が人前で感情を乱すのは、みっともないことだと教わる。

 民の前では常に威厳ある態度と言葉遣いを。できない時は、身を隠す。

 ここに身を隠す場所はない。仕方なくルドカはしゃがんだ。

 膝の上に腕を置いて顔を埋める。衣に涙を吸わせてしまおうと思ったけれど、ちっとも濡れなかった。

 やはり魂の世界なのだ。だったら痛みや涙もなければいいものを。


「時間がないので手短に慰めますが」


 すぐ近くから声が聞こえたので、驚いて顔を上げると、目の前でセツも同じように腰を落としていた。ほぼ同じ目線の高さで、子供を諭すような口調で言う。


「明らかにもう術です。昨日実演したのに、簡単に引っかからないでください」


 慰めというより、小言だった。


「蒙術……ジスラ様が……?」

「誰にでも使えると言ったでしょう。人によっては、教わらなくてもできる」


 確かに昨日、そんなに特殊な術じゃないとは言われたが。


「大体、セドク様からそういう言葉を、実際に言われたことがあるんですか?」

「あ、あるわけがないわ。思ったって言わないでしょう、普通」

「俺はあります」

「え?」

「嫉妬して恨んでいると言われたことがあります、妹に」


 想像もしない話が出てきたので、ルドカは目を丸くした。


「妹君がいたのね……歳は近いの?」

「同じです」

「えっ」

「双子なので」


 驚きすぎて、涙が完全に引っ込んだ。目の前の青年とよく似た女性を想像してみる。きっと落ち着きのある美人だろう。藍明とは違って、硬質な雰囲気の。


「そうだったのね。見てみたいわ……」

 つい思ったままを呟くと、セツの視線が横に逸らされた。

「無理です。もう死んだので」

 話はここまでとばかり、立ち上がる。

 ルドカはすぐに立ち上がれなかった。


(双子の妹君が既に亡くなっている……)


 あまりにあっさりと告げられた事情の重さに、すぐには身動きが取れなかった。

 同じような経験をした人がこんな目の前にいるなんて、考えたこともなかった。

 自分のことしか見えていない――暗に、そう告げられたと感じるのは、いじけた勘繰りが過ぎるだろうか。


「それで? 呼び出した以上は、何か話があるのでしょう」


 これ以上の時間の浪費はごめんだと言いたげに、セツが話を切り替えた。

 ルドカは立ち上がって、今度こそ泣くのをやめる。

 冷静に考えてみたら、セツの言う通りだ。セドク本人から直接言われたわけでもないことで思い悩むなんて、馬鹿げている。でも、こうやって悪い方に思い込んでしまうのが、蒙術の恐ろしさなのだろう。

 ここにいられるのは四半刻(三十分)が限界。時間を無駄にしている場合ではない。


 夢現香むげんこうのことを、藍明と紅玲こうれいの意見も含めて全て話すと、セツは数秒黙り込んでから口を開いた。


「その対処を俺に訊きに来たということは、助言役として登用することに決めたと受け取っていいのですね? 昨日は随分と疑っていましたが」


 言われてハッとする。確かに、昨日はセツの正体と真意を疑って、それで藍明を人質に取る流れに至ったのだ。全て彼の掌の上だったわけだが。


「あ……あなたというより、藍明のことを、ひとまず信用することにしたの」


 完全に踊らされていたことを思い出すと、素直に頷くのも悔しい気がして、ルドカは悪あがきのような台詞を吐いた。


「藍明は夕べ、私を殺そうと思えば殺せる状況だったのに、そうしなかった。それに夢現香のことを教えてくれた。だから、少なくとも敵じゃない」


 セツは特に感銘を受けた様子もなく、ただ頷いた。


「なるほど。では登用されるにあたって、いくつか条件があります」

「はい?」


「一つ、藍明の身請け金は返還を求めないこと。一つ、事が成った暁には協力者に報酬を支払うこと。一つ、藍明と俺を同格の助言役として扱い、何事も包み隠さず相談し、助言を受け入れる努力をすること。一つ、自身の財産と権力を目的のために惜しまず使うこと」


 ルドカは絶句した。登用される側が条件をつけるなど聞いたことがない。でも今となっては、夢現香の対処法を聞くためにも、吞まないわけにはいかない。


(息をするように人の風上に立つ人ね……!)


 機を逃さないその手腕には、感心を通り越して恐れ入る。なんの因果かは知らないが、彼が味方になってくれて助かるのは事実だ。挙げられた条件に悪辣な項目がなさそうなのは、ひとまず幸いと思うべきだろう。


「わかったわ、条件を呑む。お望みなら証文でも書きましょうか」

「いえ。魂の状態で約束したことは、破れば魂が破れますから」

「そうなの!?」

「条件を付け足します。一つ、人をすぐに信用しないこと。特に動物の話と、共感できる身の上話をしてくる男は、全員詐欺師だと思った方がいい」

「それ、あなたのことじゃ……」


 不思議そうに言いかけて、魂云々の辺りから完全に揶揄からかわれていると悟る。

 思わず睨みつけると、セツは口元に薄い笑みを乗せた。


「仕事にかかりましょうか」

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