四十一・疑惑(六)
セツに会える場所は霊廟しか知らない。
昨日は朝議の後に霊廟へ行き、兄のセドクから生前に教えられていた〝
あれは
まごついていると、演奏を終えた
「昼餉の前までしばしお休みくださいませ、ルドカ様。眠りは一番の薬です」
「あ……わかったわ!」
勢いよく返事をして寝所に下がり、ルドカは気絶するように眠った。
目覚めた時には、頭が大分すっきりしていた。悪夢を見ない眠りに就けたのは久しぶりだ。花窓から射しこむ光の角度からして、既に昼近いことがわかる。
急いで鈴を鳴らし、女官に身支度を手伝わせて、霊廟へ向かうことにした。
公務のある日ではないため、護衛の任務は
一人でさっさと走って行きたい気持ちをこらえ、数々の建物を囲む白漆喰の長大な壁に沿って、細長い石畳の道を北へ向かって歩く。
突き当りの角を曲がり、門を潜って、霊廟の区画へと足を踏み入れた時だ。
壮麗な花鳥文様が施された拝殿の門柱の陰から、白銀に輝く長髪を携えた偉丈夫が姿を現したのを見て、ルドカはぎくりと足を止めた。
叔父のジスラだ。
幼い頃は大好きだったのに、今ではすっかり苦手になってしまった人。
とっさに息を潜めたものの、感覚の鋭い彼が気付かないはずがない。
「これは、ルドカ様」
温かく見える笑顔で会釈され、仕方なくルドカは、進み出て自分も礼をした。
「毎日のように霊廟にお参りされているのですか。良いお心がけですね」
「いえ、私以外の家族がここにいるので、自然と足が向くだけです」
しおらしく答えながらも、冷や汗が滲む。
毎日のように。つまり、昨日も来たことを知られているのだ。中で倒れたことも知られているかもしれないと、少し心配になった。
(もしかしたらジスラ様も、中でセツの兄君に会っていたのかも……)
ジスラには五年も前から兄がついていると、セツが言っていたことを思い出す。
セツの氏族である
セツの目的はルドカを王にして稗官に任命され、惣領になること。
彼と接触したことを、ジスラに知られるわけにはいかない。
「兄上の木牌に話しかけると、不思議と気持ちが落ち着くのです」
つい言い訳のように口走ると、ジスラは哀れむように眉根を寄せた。
「セドク様があなたに、王位を期待させる物言いをしていたのは知っています。それであなたは亡き兄を唯一の男の味方と思い、そこまで慕っているのでしょう。ですが、そろそろ本当のことを知った方がいい。あれは恨み言の裏返しですよ。彼は自分にないものを持つあなたに、嫉妬していただけだ」
「え……」
思いも寄らないことを言われ、ルドカは我知らず呼吸を止めた。
「彼は先王に似て
「何を、おっしゃりたいので……」
「なぜ自分ばかりがと、彼は思ったでしょう」
質問させる気はないらしい。言葉を被せられて、ルドカは怯んだ。
「男に生まれたがゆえに、ただでさえ短い人生を、責務や重圧ばかりで埋めないといけない。一方あなたは同じ王族でありながら、女だという理由で、その重責を味わうことはない。妬ましく思っても無理はありません。同じ苦しみを味わわせるために、彼はあなたが女王を目指すよう仕向けた。素直なあなたはそれを信じ、まんまと悪路を歩まされることになった」
「違います」
掠れ声が漏れた。それを潮に、怒りがこみ上げた。
「兄上はそんな人じゃありません。何の根拠があって、そんなこと……」
「根拠は今のあなたです。あれだけ聡明な方だ。本当に妹のことを思っていたら、非常識な公主として白い目で見られる状況に陥らせたりしない。違いますか?」
高身長のジスラに身を屈めて顔を覗き込まれ、声音ばかり優しく訊かれると、逃げ場を塞がれた感覚に陥る。
ルドカは喉をひくつかせた。
何か言えば、それは自分の首を絞めることになるのだという気がした。
身動きできずにいると、背後で息を殺していた付き添いの二人が、肩や背中を抱くようにしてルドカの向きを変えてくれる。
「ルドカ様、そろそろお時間ですわ。参りましょう」
「殿下、失礼いたします」
そうやって副官と杏磁が機転を利かせてくれなかったら、突っ立ったまま泣き出していたに違いない。
覚束ない足取りで拝殿を進むルドカに、二人は背後から交互に謝罪した。
「申し訳ありません。
「わ、わたくしも、
「いいのよ。助かったわ。ありがとう」
紅玲と寧珠がいる時には、ジスラと鉢合わせしても、あんなにひどいことを言われた覚えはない。それは、あの二人が護ってくれていたからなのだ。
そう思い知らされた衝撃が、桃の実に残された爪痕のように、胸の奥の柔らかな場所にじわりと食い込んだ。
拝殿の最奥に着き、手燭や長衣の準備をし、竹笛を渡される。
心配そうな二人に大丈夫と繰り返し告げてから、一人で青銅の扉を押し開け、真っ暗な本殿の中へ入った。
枝分かれした燭台に火を灯し、祭壇を素通りして、奥の壁画の前へ進む。
いつもなら祭壇に火を灯して祖霊に礼拝を行うのだが、今の乱れた気持ちでそれをする気には、どうしてもなれなかった。
壁画の中央には、満月のような丸い鏡が嵌め込まれている。
手燭を床に置き、ぼんやりその前に立っていると、いつの間にか青白い蛍に似た光が、鏡の横の不思議な文字の上に留まっていた。
虚ろにその動きを目で追った。右、上、下、左……
ふと意識が遠のき、床に座り込む。
すると冷たい指に手首を掴まれ、身体が前に引かれて、眼前に鏡が迫った。
銀色の光が視界を埋める。
眩しさに目を瞑り、何かを突き抜けた感覚に目を開けると、いつの間にか、前と同じ奇妙な場所に立っていた。
仄白い輝きに満たされた、天井の見えない円筒形の空間。
湾曲した白磁のような壁に、円と三角形を様々に組み合わせた文字らしきものがたくさん刻まれ、藍色の墨で色付けされている。
目の前には、三つ編みを背に垂らし、方士のような衣服を着た青年がいた。
セツだ。
本名は
振り向いた彼は、黒々とした瞳をルドカの顔に留め、一拍置いて言った。
「なぜ泣いているのです」
その言葉を合図とするように、ルドカの目から、涙の粒が転がり落ちた。
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