四十・疑惑(五)
すべきことは明確だが、事は簡単ではなかった。
王太子宮の香に
しかも、ジスラの信奉者がいるかもしれない監察局ではなく、
言うは
「宮中で起きた問題を、監察局ではなく軍が調査するって、どんな時?」
ルドカが尋ねると紅玲は顎に手をやり、しばし考え込んだ。
「内部の不正を
「それ、いいですわね」
「誰かが侵入したことにして、封鎖してしまえばよろしいのですわ」
すぐに紅玲がムッとした顔つきになり、藍明に向き直った。
「軽口を叩くな。王城の守備防衛は鉄壁だ。外朝から内朝に至るまで、いくつ門があると思っている。何者であれ、侵入して内朝まで至るなど夢物語だ」
「まあ、軍人さんの言い分としては、そうですわよね」
「何が言いたい?」
「と、とにかく、全く手がないわけではなさそうね」
二人の会話に割って入り、ルドカは懸命に頭を働かせた。
「仮に……仮によ? その、何者かが侵入したという理由で、王太子宮と女官の関わる建物を、娘子軍が封鎖できたとする。でも、
王太子宮に香を納品しているのは、ルドカの
「仮に、ということなら」
強調してから紅玲が答えた。
「同時に調べる必要はないかもしれません。表向きの理由が賊の侵入……もはや我々だけの問題ではなく、王城全体を巻き込んだ大騒動です。そこまでするとは敵方も思っていないでしょう。別の問題と考えるはずです」
確かに、おおごとになり過ぎるとルドカも思う。
成果が出る、出ないに関わらず、その後の処理がまた大問題だ。きちんと調べれば、狂言であったことは容易に明るみに出てしまうだろう。
その場合、監察局を頼らず自分たちで事の解決に当たろうとした王太子と娘子軍は、臣民の目にどう映るだろう。
内実はどうあれ、王家と宮廷は対外的には一枚岩であるべきだと、基礎的な王族教育を授けられたルドカの本能は判断していた。
新興の遊牧民族にハサライを奪われ、宗主国としての面目と西域への影響力が低下しているこんな時期には、特に。
(この策は現実的じゃない)
内心でそう断じながら藍明を見れば、彼女は微塵もそのように思っていないらしく、翳りのない笑みを浮かべている。
「葉を隠すなら森の中と、昔から申しますもの。悪い考えではありませんわ」
やけに自信たっぷりに言われると、そうなのだろうかと、気持ちが揺らぐ。
紅玲が口の中で舌打ちをした。
「あなたは気軽な立場だからそんなことが言えるのだ」
「あら。この件の責任者にわたくしを任命してくださっても、構いませんのよ?」
「えーと……どうも、すぐに答えを出せる問題ではないみたいね」
この二人に会話を任せておくと妙な緊張感が漂う。自分が主導権を握る決意を思い出し、ルドカはひとまず場を
「二人の意見はわかったわ。でも、私にも少し時間をちょうだい。落ち着いて一人で考えてみたいの」
「では、ルドカ様。御前を辞す前にどうか、演奏のお許しをください」
そう言って藍明が再び床に座り、傍らに置いていた
「お顔の色が白く、随分とお疲れのご様子。芸妓として身請けしていただいた以上、その芸で御心をお慰めするのがわたくしの役目です」
「ああ……そうよね。ええ、聴きたいわ。ぜひお願い」
すっかり忘れていたが、元々そういう名目で藍明を呼び出したのだ。少しも音を立てずに彼女を帰せば、外で控える女官や娘子兵たちは不審に思うに違いない。そういう意図も込めての申し出だろうと、ルドカは頷いた。
藍明が楽器を構えるのを見て、二人の間に分け入る形で立っていた紅玲は、黙って後方へ身を引いた。すると、最前までの緊張感が嘘のように消え失せる。
幾度か音を鳴らし、調弦を終えた藍明は、ルドカに向けて静かに一礼をした。
「では、奏させていただきます。西域から伝わった旋律に、名もなき詩人が短い歌詞をつけた悲恋歌です。恋人を亡くした小国の公主が、蛍を見て恋人の魂と思い込み、追いかけるうち月へ昇ってしまう。『
内容からしてさぞかし切ない旋律だろう。曲名には何か聞き覚えがある……と呑気に考えてから、ルドカはハッとした。
月蛍。
低きから高きへ、月光の
筋張った指先が細かく位置を変えながら、絹糸の弦を力強く押さえつける。
見開いた目にその様子を映しながら、ルドカは膝の上で拳を握った。
(偶然のわけがない)
藍明は月蛍の意味を知っている。
ここでそんな曲名を、わざわざ口にしたということは。
(セツに、会いに行けということ……)
確かに彼なら、この事態を打開する策の一つや二つ、簡単に提示してくれるかもしれない。
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