三十八・疑惑(三)
朝の光の中で見る
この美女が闇を渡り、夜中に王太子の寝所へ忍び込んでいたとは、誰も思うまい。
主殿正面の堂に座して迎えたルドカの前で、藍明は慎ましく
人が多いと落ち着かないと理由を付けて、ルドカは見張りの二人を外へ出す。
内扉を閉めさせ、これでようやく、三人で話をする場が整った。
「藍明、楽にしていいわ」
「ありがとうございます」
藍明が礼を言って顔を上げた途端、
「あなたは昨夜の猿騒動を知っているか」
その言葉と視線を受け止め、藍明の大きな黒目がすっと細められた。
ルドカは内心でギョッとした。こんなに突然、緊張感のあるやり取りが始まるとは思っていなかったのだ。ハラハラして二人を見比べる。
藍明は戸惑うかと思いきや、さほど間を置かずに「はい」と答えた。
のみならず、驚くべきことを口にした。
「あれは〝
ルドカは目を
さすがの紅玲も唖然としている。その間に藍明は淡々と続ける。
「
「ぬけぬけと……!」
喉奥で唸った紅玲が殺気立つのを感じ、すぐ傍にいるルドカは全身の毛が逆立つ感覚に襲われた。紅玲の手が剣の柄に触れるのを見て、慌てて立ち上がる。
「だめよ、紅玲!」
いつの間にか藍明も右脚を後ろに引いた姿勢で、その場に立っていた。
楚々とした雰囲気はどこへやら。藍明は口元に艶やかな冷笑すら浮かべていた。
「その剣のみで主君を護れるとお思いなら、随分呑気な方だと言わざるを得ませんわね。
なぜわざわざそんな口の利き方をするのだと、ルドカは泡を食う。
抜き身の剣のごとき殺気を放つ紅玲を前にして、一歩も引かずに堂々と立つ彼女は、悲運に翻弄される哀れな美女の仮面を完全にかなぐり捨てていた。
それにしても、ここまで喧嘩腰になる必要があるだろうか。
(紅玲と協力するんじゃなかったの!?)
このままでは険悪になる一方だと案じた通り、もはや紅玲も敵意を隠そうとはしていなかった。怒りを通り越した冷ややかな目になっている。
「挑発が上手だな。か弱い女の顔はやはり擬態か。何が狙いだ」
「昨日の顛末を見ていらっしゃらなかったの? わたくしはルドカ様に命を救われ、居場所まで与えていただきました。身も心も全て捧げると決めたのです。ですから狙いはあなたと全く同じですわ。ルドカ様をお護りし、その目的が玉座に就くこととおっしゃるなら、仲間をも利用して骨身を惜しまずに働くこと」
「降って湧いたような人間の甘い言葉を信用しろと?」
「とんでもない。言葉などいかようにも操れるものですから」
藍明の語尾に嘲弄めいた響きを感じ、ルドカはセツと会話した時のことを思い出した。今の彼女の言葉運びは、あの時の彼の話し方とよく似ている。
(まさか、
それを確かめるために口を挟めるような雰囲気は、もちろんない。
「信用していただきたいのは、とある事実です。この宮にルドカ様を害そうとする者の姦計が既に蔓延っていると、あなたはちっともお気付きでない。わたくしのように卑賎の身に堕ち、邪も魔も味わった者でなければ、そうした手管を知りようがないのでしょう」
「姦計?」
頭上でギリと奥歯を噛みしめる音を聞き、ルドカは紅玲の顔を見た。
自分には一度も向けたことのない凄まじい目つきをして、剣の柄に手をかけたまま、彼女は煮えたぎる何かを呑み下したようだ。
「話せ」
「香です。この宮の全体に、邪な目的で焚かれる香の匂いが漂っている。早急に犯人を突き止めねばなりません。ご助力願えますか?」
強い視線がぶつかり合うのを、ルドカはただ青い顔で見つめるしかなかった。
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